俺のドリームボディー体験

平山雅浩の日記――春宣りゆかむ 2003/06/10(火) 生存のための技法――ワールド・ワークからコミュニティ・アートまでで、「ミンデル推薦の語りクチ」を褒めていただいたので、ミンデルとの出会いについて書いてみよう。

最初に読んだのは「ドリームボディ」で、これを三分の一くらい読んだ時に、腹痛になった。ただの食あたりなのだがすごい痛みで、夜中にトイレでうなっているうちに、油汗がポタポタしたたり落ちてくるくらい痛かった。

(注:以降ちょっと汚ない話になります)

その時に、「これ以上痛くなったら救急車を呼ばんといかんな」と思うのと同時に、たった今読んでいる本に「痛みは何かメッセージを持っている」と書いてあったのを思いだした。そこで、この痛みが何かメッセージを持っているのだろうかと思って、痛みに気持ちを集中してみた。あたりまえだが、痛みに気持ちを集中するともっと痛くなる。それで気持ちは逃げようとするが、いくら逃げようとしても結局痛いので、どうせ痛いのなら、このチャンスを使うしかないと、また痛みに気持ちを向けた。するとますます痛くなって、このまま行くと家人を起こすこともできず、このままウンコまみれで死んでしまい、朝になって無惨な(別の意味で無惨な)死体として発見されることになるのでは?という恐怖が湧いてきた時に、痛みが爆発した。

目の中で銀河系が爆発して星が飛びちるようなイメージがわいてきて、同時に、大腸の言いたいことがわかったのだ。

 「おまえ、タメすぎ」

その時、なんでそんな痛かったのかのかと言うと、実は、下が便秘で上が下痢だったのだ。下が詰まっているのに、上が緊急事態でグイグイ押すもんだから、異常な痛みになっていた。

そして、この状態が、当時の自分とシンクロしていることがわかった。俺の頭も下痢を起こしているのに、出口がなくて、ギューギュー詰めになって、俺の存在全体が悲鳴をあげていた。それが腸の感覚として、はっきり感じられたのだ。言いたいことをガマンするたびに、腸に緊張が走り、その緊張が腸の活動レベルを落とし、それが便秘につながる。その緊張感→便秘→ギューギュー押される痛みのつながりが、爆発するような痛みの中で体の感覚として体感できたのだ。

それを感じると少しだけ痛みがやわらぎ、やがて出るものが出てきた。最初はカチカチで3200万色のグラディエーションのように少しづつ少しづつ柔らかくなり、最後に液体に至る。その後、しばらくふとんとトイレを往復しながら苦しんだが、なんとかそれでピンチを脱した。

そして「腸に力を入れてガマンする」感覚が俺の中に残った。これが自分の心と体にかけている負担に、以前は無意識だったのが、その日から感じられるようになった。結果無意識でしていたガマンに気づくようになって、少しづつガマンをしないようになった。

いろいろなことがそれ以降変わったが、公開しているものとしては、amritaの英語MLとこの日記である。英語で間違いをすることが恐くなくなった。英語のわかる人はMLを見れば俺の英語力はわかる。わからない人はチューヤンを想像しておけばいいと思う。恥をかけば意思が伝わるレベルだ。それ以前は、ちょっと考えつつも恥に焦点が当たっていたのが、下痢以降は「意思が伝わるかどうか」だけに焦点を合わせて、検討できるようになった。それでやってみたが、以前の自分では考えられないことだ。恥の感覚が腸の緊張とつながっていたのだ。

それとこの日記。書いてみて驚いた。無茶苦茶なことが次から次へと出てくる。全てが未消化で確かにこれは頭が下痢を起こしている。しかし出口が詰まっていて、悲鳴を起こしていたのだ。7ヶ月続けて、ようやく詰まっていたものがひととおり出た感じがする。

つまり、一年前の俺は、この日記に書いたことが全て頭の中に詰まっていて、出口が狭くて悲鳴をあげていたのだ。いい悪いでなく、この日記に書いてあることが全部詰まったら、それは大変なことだというのは、何となく感じとっていただけるのではないかと思う。自分では気がつかなかったが、それを体が感じとって先に現実化してくれたのだ。あのまま行ったら、体でなく人生の危機としてもっとヤヴァイ状況になっていたような気がする。

このような体とこころの相互作用に注目してそこをキーに心理療法としてまとめたものは、ドリームボディ・ワークに詳しく書かれている。俺が下痢中に読んでいた「ドリームボディ」はやや思弁的で、若干未整理。なお、これはミンデルの一連の理論の出発点であって、現在はここから数段階も先に行ってしまっている。