分割できないものを理解する

「世界は神の愛でできてる」という奴と「世界は物質でできている」という奴がいて、どちらの言うこともなかなか説得力がある。俺は両方の言い分をかなり辛抱よく聞いている方だと思うが、専門家でも当事者でもないので、なかなかどちらが正しいか判断できない。

かと言って、足して二で割ってすませるわけにもいかない。企画立案ということを真剣にやったことがある人ならわかると思うが、よいプランを足して二で割るということは、実際には割ってから足し合わせることであり、割った時点でプランが死んでしまうからだ。

一方、「ネットは便所の落書きでできている」という奴がいて、そうでないと言う奴もいる。この問題は最初の問題と同じ構造を持っているような気がするが、幸いこっちの問題については俺は一応専門家だ。ネットに便所の落書があふれていることは、そのへんの素人よりよほどよく身にしみて知っているが、それだけではないこともよくわかっている。

そこで、便所論者を説得するとを考えてみる。すぐに思いつくのは「ほら、ネットにはこんなに凄いものがある」と実例をあげて訴えることだ。なんならそういうURLを集めてリンク集なりメルマガなりを作って、「どうだ、まいったか」とやってもいいが、この論法は俺自身釈然としないものがある。

便所側が、そのメルマガが面白いことを素直に認めて便所をやめたとしても、そのメルマガは単に俺の視点を見せてるだけで、その視点がいかに鋭いものであったとしても、それはネットでないからだ。それでは、相手が俺の凄さを認めただけで、ネットの凄さを認めたわけではない。俺の凄さというものがあったとしても、それは一面的なもので一時的なもので静的なもので、ネットはもっと多面的でダイナミックなものだ。

やはり、俺としては便所野郎が自分でネットをかけずり回って、便所の落書にまみれながらほんのわずかな光るものを探しあてることを望む。それがそいつにとってのネットであって、それは俺のメルマガより真実に近いと思う。さらに言えば、便所の落書きから自然発生的に光るものが生まれ出すプロセスそのものを直に感じないと、ネットを理解したとは言えないと思う。

「世界は神の愛でできてる」という奴はほとんどが、メルマガやリンク集に相当するものを発行しつつも、だいたい似たようなこと言ってるんだよな。