吉野屋/論語/Just for fun

斉藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」という本はなかなか面白かった。朗読と言うのは肉体的な体験だ。人は朗読することで、肉体とつながり伝統とつながる。俺たちが、普遍的な朗読するためのテキストを持っていないことが、肉体と伝統から切断されていることを表わしていると思う。この本の題材は「四六のガマ」から漱石宮沢賢治まで幅広く、どれもこれも実際に読んでみて気持ちのよい素材であるが、普遍的とは言えない。

普遍的でなくてよいなら、俺も「声に出して読みたい」テキストとして推薦したいものがある。「吉野屋」と「阪神大震災」と言えばわかる人にはわかるしわからない人にはわからない。「1の母」というのもある。どれも、声に出して読みたいだけの力を持ったテキストである。だから、あれほど繰り返しあちこちに表れてくるのである。だから、あれほど多くのバリエーションが生まれるのである。そもそも物語りというのは本質的には「読み人知らず」なのであって、この点でもコピペ文は文学の伝統にのっとっている。

自爆テロが起きた時に、「阪神大震災」のテロバージョンを作った奴がいて、これを英訳した奴がいて、さらにそれをむこうのYahooに貼りつけたバカがいた。あの時は俺も「これで日本はもうしまいじゃ」とかなりあせった。しかし幸いなことに、訳す時にあの悪魔的な吸引力が失なわれていたらしい。思ったほどは騒ぎにならなかった。日本語の原本が繰り返し繰り返し人を怒らせるのは、言葉のリズムに吸いこまれていくからであって、あれを英訳する作業には漱石や*村上春樹*を訳すような困難があるのだろう。「素人には」できない仕事のようだ。実に言葉というのは微妙なものである。

朗読の効用として、意味の理解を遅延させるという働きがある。ガキの時に論語を読み暗唱してしまい、ジジイになって「己の欲する所に従いて、矩を踰えず」とかいう言葉の意味を悟る。黙読してリアルタイムで理解してしまうのより、自分の体の中で共振させて発酵させて最も適したタイミングで理解するほうがいい言葉もある。こういうやり方が可能なのは朗読の効用だ。

文字列を切ったり貼ったりするプログラムでちょっと難しいことをやると、これを「人工知能」などと言う奴がいて、どうも気分が悪かったのだが、この違和感の正体もこの本を読んでよくわかった。黙読のシミュレーションを「知能」と呼ぶのが俺は気にいらなかったのだ。

ところで「Just for fun」って言葉はどうやっても日本語に訳せないと思っていたのだが、たまたまこの本を読んでたら、ちゃんと訳せることに気がついたぜ。「之れを知る者は之れを好む者に如かず。之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず」