孤独の反対は無知

ウタダヒカルが「孤独の反対は無知」と言ったそうだ。いい所をついている。いかにも帰国子女(みたいなもんだろ)らしく、大胆でクリアな表現だ。そしたらちょうどいい具合に、このコンテキストで言う「無知」の事例が出現した。

明石市の歩道橋事故で関係者が使った「茶髪の若者が暴れたから事故が起きた」という言い訳だ。こういう妙な言い訳をするのが「無知」の表れである。

俺は公務員というのはそういうものだと思っているから、仕事をきちんとしないことは別にどうでもいい。失敗の責任を逃れることには一生懸命になるのも、太陽が東から昇ることのように、ものごとの自然のあり方に見えるのでどうこう言うつもりはない。ただ一点、非常に気になるのが、「若者が暴れたから事故が起きた」という表現に、「茶髪の」という枕詞をつけると信憑性が増すという判断だ。苦しまぎれの瞬間的な判断だろうが、そのような判断をすることが「無知」なのだ。

たぶん、この言い訳を考えついた人をとりまくごくローカルなコミュニティでは、「茶髪」という属性にそのような意味を付加するという価値観が共有されているのだろう。しかし、今は犬のように従順な目をした若者でも髪を染める。現実とそのローカルな世界観はあまりにも適合してない。その不整合に対して、あまりにも無知だと思う。鍛えられてないなあ、と思う。このような甘さの原因が「孤独」の不足なのである。

そもそも、霊界では考えたことが全て他人につつぬけになるそうだ。俺たちは、そのようなテレパシー全開の場所から、言葉や表情や手紙や携帯やチャットを必死で活用しないと意思が伝われない所に来ている。物理的な媒体をはずしてできることはせいぜい合体五択くらいのもので、それさえもできる奴は限られている。

このようなコミュニケーションの難しさに意味があるとしたら、それは「孤独」になるためだろう。「孤独」に鍛えられて、俺たちは何がしかの知識を獲得する。「こちらでおめしあがりになる」種類の知識もあるが、テイクアウトしてむこうに持って帰れる知識もある。そのような種類の知識を熟成するためには、孤独というものが必要なのだろう。

しかし、500万枚のCDを売る人間の感じる「孤独」は壮絶なものだろうなあ、と思う。