世界はひとつだ。殺しあうのはやめよう

「世界はひとつだ」と考えることはなぜ困難だと思う?そう、それはとてつもなく非現実的だ。それはそうなんだけど、それが困難である最も大きな理由は、その考えを持つことはとても息苦しいことだからだ。

そう、「世界はひとつだ」という考えを抱き続けることは、とても息苦しいことなんだ。

ある人は、その息苦しさに耐えかねて、それを笑い飛ばす。それはとても健全なことだ。それはとても自然なことだ。だけど、その考えを笑い飛ばす理由が、その考えが非現実的だからではなく息苦しいからだということをちゃんと自覚していれば健全だ。

「世界はひとつだ」という考えを保つために、何かの支えを必要とする人もいる。民主主義、憲法9条、オープンソース、グローバルスタンダード、そしてもちろん宗教。世の中にはたくさん支えとなるものがある支えを必要とすることも健全で自然なことだ。健全で自然ではあるけど、その支えを必要とするのは、自分が息苦しさに耐えられないからだ、ということを忘れてはいけない。それを忘れなければ、「世界はひとつだ」という考えや、そのことの支えとなっている何かを無理矢理人に押し付けたりはしないだろう。

じゃあ、なんでそれが息苦しいのかと言うと、心の中がひとつじゃないからだ。

例えば僕の親父は、人間には「強欲な人間」と「バカ正直な人間」の二種類があると思っていた。強欲な自分とバカ正直な自分の分裂に苦しんでいたからだ。僕は強欲にもバカ正直にもなりたくなかったが、それは彼に非常に大きなストレスを与え、どうしてもどちらかの箱に僕を入れようとした。僕がどちらの箱に入ることも拒否したので、僕と親父の間には、深刻な葛藤があった。僕は強欲でもバカ正直でもない自分を親父に見せつけようとした。その試みは僕が成長するにつれ成功しつつあったが、なぜかそのことで親父は苦しんでいた。彼の分裂した世界観を矯正することを僕は強制してしまった。僕が生きのびるためには、それが必要だったのだが、それが彼を苦しめたことは否定できない。

親父が生きていたら、この戦争を「強欲な国」と「バカ正直な国」の戦いととらえただろう。僕はその観点に非常に不快感を抱き、傷ついただろう。そしてその観点に逆らう僕に、親父は不快感を抱き傷ついただろう。彼にその世界観を捨てさせるためには、彼自身の心の中に深くしまわれている分裂に直面させなくてはならない。それが息苦しいことなんだ。

誰だって、心の中にはひとつやふたつ分裂をかかえている。それに直面することはとても苦しいことだ。

逆に、分裂した世界は人を安定させる。ブッシュが何かいさましいことを言うのを聞くと、僕も気分が昂揚してくる。つい二日前、戦う相手が見えなかった時は、僕は今月の家計が赤字になったことに頭を悩ましていて、煙草とネット代と食費のどれを削減すべきか真剣に考えていた。それは実に陰鬱な日々だった。でも、今はなぜかずっとはればれとした気分で、報復攻撃の行方を見守っている。

あのテロ行為もとてもエキサイティングだった。必要最小限の飛行機で二棟の高層ビルを見事に崩壊させたあの手際は見事だった。僕には、最小限のシステムコールでたくさんの複雑な仕事をこなす、 UNIXの設計を彷彿とさせた。あの崩壊の美しさのおかげで、僕の中の何かは崩壊をまぬがれた。

そう、確かにあのテロは僕のストレスを軽減した。そして、これから始まる報復攻撃も僕をハッピーにするだろう。僕は今回のことで、なぜ日本の国民が太平洋戦争を望んだのか、体感的に理解した。戦争は確実に脳内麻薬を分泌させる。アメリカが正義であるという情報操作は、彼らがメディアを握っているから可能なんじゃない。僕らがそれを望むから可能なんだ。

でも情報操作を拒否し、「世界はひとつだ」と思ったら、忘れていた家計の赤字にまた直面しなくてはならない。そして、それにともなって、ここには書けないような深い内面的な分裂がボコボコ湧き出してくる。僕のこころはひとつではないからだ。

「世界はひとつだ」と心の底から真剣に言うことは簡単なことではない。それを実現することが非現実的なのではなくて、単にそれを心から言うことがすでに非現実的なんだ。

その困難さを自覚しつつ、その苦しさを抱えながら、それを笑う人を受けいれて、それでも僕はそれを自分ひとりで発する言葉として言い続けたい。

「世界はひとつだ。殺しあうのはやめよう」