ビットが紙のフリをするのをやめた日

ipadでpc使い始めるお子さんはふつうのpcを糞だと思いそうですね

うまいこと言った!とは思うけど、そうじゃないと思う。

自動車のことを「四輪でエンジンがついた自転車」とは見ないように、生まれる時にもう既にiPadがあった人には、我々が使っているPCとiPadが同じカテゴリーのモノには見えないだろう。自転車と自動車が別カテゴリーであるように、PCとiPadは別のカテゴリーのものだ。

いろんなレビューを見れば見るほど、iPadは、顧客が本当に必要だったもの ではないかと感じる。

「顧客」とは、刷り込みされてない人類そのもので、だから、iPhoneは一歳児でも使えるし、iPadもそうなのだろう。

この子たちが成長するにつれて、「PCスキル」という概念は消えていく。問題はそれが使えるかどうかではなくて、それで何ができるかだ。iPadの画面は、クラウドに蓄積された全人類の知的遺産と、今生きている全人類全てにつながっている。その中で何ができるかが問われていくだろう。

私の考えでは、もはや音楽に歴史というものはないと思う。つまり、すべてが現在に属している。これはデジタル化がもたらした結果のひとつで、すべての人がすべてを所有できるようになった。レコードのコレクションを蓄えたり、大事に保管しなくてもよくなった。私の娘たちはそれぞれ 50,000枚のアルバムを持っている。ドゥーワップから始まった全てのポップミュージック期のアルバムだ。それでも、彼女たちは何が現在のもので何が昔のものなのかよく知らないんだ。例えば、数日前の夜、彼女たちがプログレッシブ・ロックか何かを聞いていて、私が「おや、これが出たときは皆すごくつまらないといっていたことを思い出したよ」と言うと、彼女は「え?じゃあこれって古いの?」と言ったんだ(笑)。彼女やあの世代の多くの人にとっては、すべてが現在に属していて、“リバイバル”というのは同じ意味ではないんだ。

音楽だけでなく本も動画も、この状態になっていくだろう。「すべてが現在に属している」とは、全てが手の届く所にあるということで、その「手」を我々は手にいれたのだと思う。

この状態がいつ実現するのかはわからないが、これから、この状態に向けて「紙のことを忘れていく」競争が始まるのは確実だ。

今のコンピュータ、特に、メールとオフィスソフトは、紙に未練がありすぎる。紙のフリをしたビットだ。もう、ビットはおとなしく紙のフリをすることはない。凶暴な本性を露にして、遠慮なく生のビットになっていく。

市役所の住民課が、住民基本台帳というファイルキャビネットのメンテナであるように、今の大半の組織は、紙の書類を集めたファイルを収納したキャビネットの番人だ。ビットは紙のフリをして、ITはファイルキャビネットのフリをして、紙の世代の人類にうまく話を合わせてきた。

ビットをビットとして扱えない所から「PCスキル」という概念が生まれる。でもそれは、「顧客が本当に必要だったもの」の前ではほとんど意味がない。

iPad以降に生まれてくる人たちは、当然のように、ビットがビットとしてふるまう、そういう世界を求めるだろう。彼らも紙を使うべき所では紙を使う。キーボードのあるPCを使うべき所ではそれを使う。でも、彼らから見て、適正にビットをビットとして使うということは、我々から見ると暴力的な革命にしか見えない。ビットは共有可能であるからだ。

グーグルとかアップルとかは、本隊ではなくて、そういう世代の偵察部隊にすぎない。偵察部隊を敵全部だと思うのは大きな勘違いで、本隊はこれから続々生まれてくる。発展途上国でこれからITを使いだす人たちも、援軍として参加するだろう。

紙に縛られず、紙やファイルキャビネットのメタファーに縛られないということが、どれだけ、組織というもののあり方を根本的に変えていくか、これから我々はそのことに翻弄されていくのだ。組織を変えるというより、ビットが持つ自由度と制限の範囲で、人は自分の好きなようにつながる。組織というものは、無数にあるつながり方のものすごく特殊なケースの一つにすぎない、ということがわかってくるだろう。

紙もPCも組織も消えるわけではない。それが本当に必要な所だけで使われるようになる。それはたぶん、巨大な発電所の中のような、非常に特殊な場所でごくごく稀に使われるだけになる。コンセントのように一般の人が普通に目にするものは、iPadとその中に見える生のビットになる。

私は、今の社会のあり方は、人間の本性よりも紙というデバイスの特性に影響されていると思う。お金も法律も紙というデバイスの特性抜きにして、今のようになっていることは説明できない。いろんなことが硬直的なのは、人間の特性ではなくて、紙というデバイスの特性であって、今の人類は、無理に紙に適応しているのだと考えている。人間はもっと軽くて自由で、紙よりはビットの方が相性がいい。紙の支配する世界よりビットの支配する世界の方が楽に生きられると考えている。

人間がビットに支配されることを望んでいるわけではないが、紙というデバイスに内包された論理から人間を解放する為にビットは使えると思っている。

紙がビットに移行する過渡期において、お金や法律という紙の論理にどれだけ投資するかは難しい決断だ。少なくとも、お金や法律のような紙的なものを旧世代のレベルで盲信するのは危険だとは言えるだろう。結果として同じように生きるとしても、いつでもやめられるように戦略的に投資して、自分のポジションを戦略的に決めていくべきだと思う。

iPadというお手本ができたことは、オープンソースソフトウエアの開発に求心力を与えるので、これから、iPad的なデバイスは急速に普及すると思う。それらを通して、なるべく早くに、紙とビットの違いを実感しておくべきだろう。


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(追記)

二才半の子供が初めてiPadを使ってみる

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