「詰みがある」という情報の使い方

今のうちに宣言しておくがもしブロガー将棋大会なんてものが行なわれるとしても私は絶対に出ない。もし出て自分の棋譜がネット上に晒されたら、もう恥ずかしくて二度と将棋のことを書くことができなくなってしまう。それくらいヘボなので絶対に出ないよ。

でも、ヘボでもプロの将棋を鑑賞して楽しむことはできる。大きな対局では棋譜中継というのがあって、ブラウザから解説付きでリアルタイムの棋譜を見ることができる。Kifu for iPhone というソフトを使うと、iPhoneから見ることもできる。

当然、盤面だけを見てもチンプンカンプンなのだが、プロ棋士の解説がつくと、単に勝ってる負けてるだけはなくて、何が争点になって、それがどういうふうに推移していくかよくわかる。勝負の決め手となる重要な場面で何が起きたのかもだいたいわかる。

電車の中でワクワクしながら、固唾をのんでiPhoneを見てたりして、「本当にいい時代になったものだ」と思う。

二日制のタイトル戦のスピード感は、他のあらゆる勝負ごと鑑賞と比較して、独特のものがある。難しい局面で手が止まり、棋士が長考に入った時、リアルタイムでその長考の時間を共有できるのだ。そういう時には、時間があるので解説もより詳細になり、何故ここで長考するのかよくわかる。次の手がその解説にない予想外のものだった時に、「なんだこの手は!いったい何がどうなったんだ」という混乱をリアルタイムで感じることができる。

この時間が静止して突然急速に動きだす感覚はスポーツでは得られない将棋鑑賞独特のものだと思う。

そして、これは全てが決着してからの後追いでは経験できない体験だ。

予想外の手は名手か悪手であることが多く、事後の解説では、その手の所にマークがついていて、名手なのか悪手なのかわかるようになっている。リアルタイムでは、強いてマークで表すと「!」でしかなくて、その後、手が進み、解説者が事態を理解しはじめて、「!」が「◎」か「×」のどちらかになっていく。

この「!」が「◎」になったり「×」になっていく時間を、Kifu for iPhone2ch で共有できるのは、なかなか楽しいもので、この為だけに将棋を覚えても十分元が取れると思う。

それで、そういう鑑賞する為のポイントは、「詰み」「詰めろ」「必死」等のごく少数の専門用語を理解することだ。

ケースにもよるが、トッププロの対局の中の焦点となるような難しい局面で「詰み」があるかどうか自分でわかる人は、日本中でも数百人だろう。しかし、ある程度やってる人なら、解説者が「詰みがある」と言った時に、次の手がどういうふうに限定されていくかはわかる。私のようなヘボでもわかる。

「ここで『詰めろ』が続かないと負けです」というような説明には、ものすごく大量の情報が圧縮されていて、それによってトップ棋士の脳内の超高速計算の中で起きている不可視の戦いの全貌が、突然クリアに見えてくるのだ。

「詰み」があるのかないのか、解説のトップ棋士でも間違えることはある。対局者もそれを間違えて負けることがある。相手も同じ勘違いをしていて、間違えたはずなのに勝ってしまうこともある。そういう時には、無かったはずの「詰み」がそこにあったのか、それともやっぱり無かったのか、間違えているのはいったい誰なのか、固唾をのんで見守ることになり、それもまた一興。

それで、ようやくここから本題なのだが、この「詰み」「詰めろ」「必死」といった概念による情報伝達は、専門家と一般人の理想的な役割分担の一つのモデルケースになっているのではないだろうか。

つまり、将棋の対局は、対局者同士が、もの凄い量のディテールを含んだ専門的な議論をしているようなものだが、その難解な論争を圧縮して、争点を理解する為の敷居を下げるのに有効な言葉が、将棋にはたくさんあるのだ。

「詰み」「詰めろ」「必死」という概念は、将棋がデジタルなゲームであるから存在するのかもしれないが、序盤、中盤にはもっとあいまいな意味の独特の用語がある。たとえば「研究」という言葉が将棋独特のニュアンスで使われる。中盤に出てくる「筋悪」とか「手厚い」とか、素人にはなかなか理解できない概念もある。

どんな分野にも専門用語の体系というものがあって、これが専門家同士のコミュニケーションにも使われるし、専門家による素人向けの解説にも使われる。そして、その分野に関する知識のレベルによって、体系が階層化しているだろう。

私が言いたいのは、専門家と素人の間の情報交換の為の概念体系として、将棋の専門用語は非常に効率的に整備されているということである。学習コストに対する理解度アップの係数が、他の分野と比較して非常に大きいように思える。

ソフトウエアやインターネットの専門家として、一般の人に何かを伝えようとする時に、誤解されたり敬遠されたりしてしまうことが多い。本来は、専門的な知識が無い人にももっとうまく伝えられるはずなのに、それができなくてもどかしく感じることが多い。

どうしてこれが『詰めろ』なのかをわかってもらいたいのではない。「とりあえず自分はこれは『詰めろ』だと思う。これが『詰めろ』であるかについては他の専門家のセカンドオピニオンを参照してからでいいから、これが『詰めろ』だという前提で行動した方がいい。一般の人が自分で判断してこれは『詰めろ』ではないと思うのは危険だ」と言いたいことがよくあるのだけど、その『詰めろ』に相当する便利な言葉がなかなか見つからない、という悩みがどうも私にはあるようだ。


一日一チベットリンクTwitter / 福島香織: 「胡錦濤くん、ダライ・ラマ14世と直接対話して、和解すればノーベル平和賞とれるよ」とかブログで書いたら、怒られて、ビザ出さないといわれました。