ウサギとカメと生成力
ウサギさんのように、ピョーンとトップに踊り出たかと思うと昼寝してて抜かされちゃうトレンドが多いので、誰がカメさんなのかを見極めることが重要だと思います。
「ムーアの法則」は間違いなくカメさんで、この人は絶対にサボらないで着実に前進します。たとえば、誰が電子ブックリーダ戦争の覇者になるか、なんてことは簡単には予想できませんが、電子ブックリーダが数年で1万円くらいに安くなることはほぼ確実でしょう。このカメさんは、常に前に進み続けているので、時間がたてば必ずハッキリした結果を残します。
もう一人のカメさんが「生成力」だと思います。
生成力(generativity)とは、ジョナサン・ジットレインが「インターネットが死ぬ日 (ハヤカワ新書juice)」のメインテーマとした造語で、みんながワイワイやってるうちになんか凄いものができてしまう様子を差す言葉です。creativity が一人の創造力を指すのに対して、generativity はたくさんのアイディアが連鎖していくイメージでしょうか。
次のエントリを読むと、その感覚がわかると思います。
「生成力」という言葉は新しいものですが、この概念は古くからあります。むしろ、コンピュータ産業の歴史は、企業が生成力に引きずり回された歴史と言えるでしょう。
コンピュータとは何かということについて、昔から、対照的な二つの観点があります。
- コンピュータは人間を管理、統制、監視するもの(個人を分断化してバラバラにして無力化していくもの)
- コンピュータは個人をエンパワーするもの(個人をつなげてネットワークによって個人の力を拡大していくもの)
私がこの世界に入り、大型コンピュータのSEとして勉強しはじめた頃(1980年代)は、1.の観点が主流でした。
今からふりかえれば、2.の立場の源流とも言える、アラン・ケイのダイナブックやsmalltalkやUNIXは既に存在していたのですが、そんなもの誰も知りませんでした。
それから30年間、何度も「生成力」に驚かされてきました。30年前は、IBMが業界の王者として君臨していて、自分が生きてるうちにはその立場が揺らぐとは思えなかったのですが、その後IBMは、何度もこの「生成力」によって痛い目を見ています。
- サーバの相互接続の標準プロトコルがSNAでなくTCP/IPになってしまったこと
- パソコンの黎明期にAT互換機の台頭を許したこと
- UNIXサーバによるメインフレーム市場の侵食
- 事務処理用パソコンの標準OSとしてWindowsにOS/2が負けたこと
どれも、自分の感覚では「絶対IBMが勝つだろう」としか思えませんでした。汎用機SEとして教育を受けた私には、TCP/IPもAT互換機もUNIXもWindowsも「不気味でいかがわしいもの」に見えて、それと比較すると、IBMの製品は常にスマートで論理的で、「まとも」に見えました。
参入障壁を下げて管理をゆるめると、大勢の金脈掘りが押し寄せてきます。ほとんどがクズばっかりで、中には犯罪者や詐欺師に近いのも混ってたりするのですが、「連鎖」が起きるのはそういう混沌の中からです。
今のIBMは、LinuxやJava等のオープンソースソフトウエアの開発に積極的に関与し、その成果をうまく自社の製品ラインに組み込んでいて、うまく生成力に乗っかっている企業の一つだと思いますが、最初からそうだったわけではありません。私もIBMも何度「そんな馬鹿な」と言ったかわかりません。「今度こそ生成力の負けだ」と思って、何度、同じ失敗をしたかわかりません。
生成力とは、場を作る人と集る人の関係です。場を作る人が「そこに集ってくる人たちは必ず何か自分の予想以上のことをやる」と思って、その考えに忠実に場を作れば、そこに生成力が生まれます。
TCP/IPもAT互換機もUNIXもWindowsもみな、プラグインの口が過剰に開けてありました。そこが汎用機と一番違う所です。汎用機はAPIやプラグインは少な目ですが、多い少ないより「この口はこの為に使う」ということが決まっていて、それがハッキリしないと口を開けない、という所が違います。管理を重視する立場に立つと、口を開けるのは最小限にしたいし、その使用方法や目的をできるだけ明確にしておきたいからです。
これは技術に関する考え方の違いではなくて、人間観の違いだと思います。「人間の創造力は無限だ」と信じていると、口を開けて管理できなくなるデメリットには目をつぶり、口を開ける方に頭を使うことになるのだと思います。それって、普通の技術者から見ると、どこかいびつなおかしい設計に見えます。
そういう経緯があって、ネットの企業は「生成力」に近いポジションを取りたがり、その競争をするのです。
このブログエントリで、twitter本に関する非常に興味深い指摘がありました。
このように、みなさん一様に94年〜96年にかけてのインターネットの始まりの時期(←お詳しい方はMosaic以前のことを持ち出さないで下さいませ)を経験していらっしゃることがわかり、親近感が沸きました。
みなさんその後も継続的にインターネットを活用し続け、その延長でTwitterに出会っているわけなので、ある意味、Twitterを歴史の流れの中で見ているのだと思います。
twitter本を書いた人は、みんな、黎明期からネットを使っていた人で、その個人史の自然な延長としてtwitterにハマっているそうです。
そして、著者の方はみな、ネットには詳しいけどプログラマではないし、ネットやパソコンの技術的な側面に深入りしているようにも見えません。
おそらく、生成力の場としてのネットに魅力を感じて、それを観察し続け活動の場としてきた人たちなのだと思います。
そういう意味では、twitter本を書くには、適切な人選だと思います。私も、うち3冊は読んでいますが、よくまとまっていてなおかつ著者の思い入れが感じられ、どれも知と情のバランスが良い本だと思いました。やっぱり、きれいに整理されているだけの本ではなかなか頭に入ってきません。
このように、長期的に見ると、ネットの歴史はイコール生成力の歴史と言えるのですが、最近のアップルがこれに逆行する動きを見せているようにも見えます。
実際、ジットレンの本は、そういう視点から「アップルの支配によって、ネットの生成力が損なわれるのではないか」という懸念を表明したものです。yomoyomoさんの下記のエントリで、そのあたりの事情がよくわかります。
私は、Facebookやtwitterも含めて、生成力に近づく為の戦略が高度化、複雑化しているのであって、基本的には、ネットの企業は今でもみんな、生成力に近いポジションを取ることを基本戦略としているというふうに見ています。この点では、下記のエントリの観点が非常に興味深いです。
ネットに否定的な立場から見ると、生成力は悪の根源ですから、これをネットから一掃できればどれだけスッキリするかと思えるかもしれません。ネットはより一層社会の中に浸透していますから、生成力というものを社会の中にどう位置づけていくか、ということはこれからの一番大きな政治的課題になるでしょう。
私は、生成力はカメさんであり、どれだけ叩かれても歩みを止めないし、どれだけ先行してもいつのまにか追い付いてくるものであり、観念してこれとうまくやっていく工夫をすべきだと思っています。ただ、最初からそうだったのではなくて、長い経験の中でそういう結論に達したということは強調しておきたいです。
仮に、これからのネットは生成力より管理を重視して、今までよりクリーンに運営されるべきだという結論になるとしても、その時には、IT産業の過去の歴史(特にIBMの失敗の歴史)を踏まえた慎重な議論が必要だと思います。
あと、おまけとして、カウンターカルチャーとネットの歴史に関する本のレビューです。