妻夫木演じる兼続にローレンツアトラクターを見たでござるの巻

大河ドラマなんてめったに見ないけど、今日たまたま見た、上杉景勝と秀吉の会見の回はなかなか緊張感があってよかった。

と言っても、凄かったのはどちらかと言えば秀吉役の笹野高史の怪演だ。

緊張しつつ出向えた景勝の家来の名前を順番に呼んでみせて、あっというまに打ちとけてしまう「人たらし」術の凄み。一方で、兼続の人物を見極めつつ、無愛想を通す景勝にはストレートに本題を切り出し上洛を迫る。変幻自在な中に悪魔のような狡猾さも見え隠れする。まるで花の慶次の秀吉のような迫力があった。

その役者としての力技を背景にして、素直な演技が引き立っていただけなのだが、それだけとは言え、妻夫木演じる兼続にもリアリティを感じた。

智謀というのは目まぐるしく動くものだから、どこかに支点が無ければ力を発揮できない。素直さ実直さ誠実さでバランスを取ることが必要だ。無理をして自分以上のものを見せようとしない妻夫木の演技は兼続の人物像をうまく表現していると思った。

この二人の対比は、そのまま直線的に発展してぷっつり折れてしまった豊臣家と、紆余曲折があって結局生き残った上杉家の、その後の運命を暗示している。

秀吉という人は何も持たないから自由であり、敵方の重臣の名前を暗記して喜ばせるという天下人候補にあるまじき行為も何のためらいもなくやってしまう。その自由さがあるから、敵も味方も人という人を全部生かしきって天下を取った。

何も制約がないから天下を取ることができて、何も制約がないから残された者がその天下を維持することはできなかった。

それに対し、景勝と兼続の主従は、いろいろなものにがんじがらめに縛られている。縛られているから、いろいろなものに振り回される。この場面でも秀吉にいいように振り回されて上洛を受け入れる。

私がずっと抱いている人生観、生命観はあたかもローレンツアトラクターのようなもの、です。多次元空間の中で我々は円環のように、「ほぼ同じところ」に周期的に戻る生活をしています。一日に一回、一年に一回、子供が産まれるとまた一回、様々なスケールの様々な周期で元に戻りますが、決して同じ場所には戻ることが出来ません。我々のマネジメントによって多少はそのローカルな変化をコントロールすることができますし、その変化は長期的には予測することが出来ない場所に我々を導きますが、しかし決して自然が決めた空間から大きく外に飛びだすことはできません。

それで、このエントリを思い出した。

何者にも縛られない秀吉の強さと、一切のブレなく自分の限界を受け入れている兼続の強さ、あるいは、ローレンツアトラクターなような戻る所を持っている人の強さ。

主君である上杉景勝を補佐し、豊臣秀吉から山城守・山形30万石の贈与などの引き抜き行為を幾度も断るなど、忠義に厚い名将として知られる。秀吉は「直江兼続は天下の仕置きを任せられる男なり」と評している。

秀吉は、兼続が本当に欲しかったというか、そういう人物が自分が取った天下の維持の為に必要だったことも良くわかっていたのだと思う。

でも、自分のローレンツアトラクターを持たない秀吉には兼続を得ることはできなくて、そのことも、そのことが将来引き起こす致命的な問題も秀吉にはよおくわかっているけど、直線的時間の中で踊り続けるしかなかった。

「でも踊るしかないんだよ」 「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」

私はそんなふうに感じてしまった。


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