共有するトラウマが相互理解の障害となっているという仮説

電網山賊:見え難い「大前提」から


価値基準の前提の共有は、コミュニケーションの円滑化には確かに役立つだろうが、問題解決のためのコミュニケーションという、目的を持った対話の局面においては、両者が同じ落とし穴にはまることで、かえって出口(少なくとも議論の突破口になりそうな新しい視点)が見え難くなるケースがあるのではないだろうかと思う。

日本人と韓国人が無意識に共有している価値基準の「大前提」が、両者のコミュニケーションの障害となっているのでは?という話。

すごく納得しつつ、そこから派生して次のようなことを考えた。

山本七平氏は、「儒教においては、政治的殉教者を聖人として宗教的に崇拝する伝統がある」というようなことを言っていたが、これはさまざまに変質しつつも、日韓両国の「心情」に残っているのではないだろうか。

嫌韓流に対する韓国のリアクションまとめ - 楽韓Webを見ても、マンガ嫌韓流が提起したたくさんの問題の中でも「安重根義士」の扱い方についての反感は特に大きいようだ。「安重根義士」は「政治的殉教者」として聖人として崇拝されているのかもしれない。国の為に命を捨てた人に対して軽々しくその行為の結果をうんぬんするのは失礼であるという心情は、少しだけ理解できる。

そして、これを否定する根拠は、伊藤博文暗殺の現実的効果や前後の国際関係を地政学的に考えるという「現実論」であるが、「現実論」と「心情」の対立、あるいは、国際政治のパワーポリティクスと土着的な感情論の葛藤は、日本国内の問題でもよく発生する問題である。

私はこれを「過剰な現実主義」と「過剰な理想主義」の分裂と呼んだのだが、この対立が起こると、両者とも必要以上に硬直化する傾向がある。両者とも現実的利害を超越して妥協を拒否する。

明治以降の日本の歴史に繰り返し現れて来るこの問題の延長に、「安重根義士」に対する「心情」を「現実論」でせせら笑うという傾向があるのではないだろうか。

この仮説が正しいとしたら、日韓両国は、「欧米列強から受けた暴力と脅迫の恐怖」によるトラウマを共有している。日本においては、それが裏返しの過剰な現実主義として現れ、韓国においては、裏返しの過剰な権威主義として現れる。どちらも、アメリカあるいはグローバリズムあるいはパワーポリティクスというものと、伝統的宗教感情の葛藤に苦しんでいる。

ある意味で両国は、その葛藤に縛られているという意味で「価値基準の大前提」を共有しているのだけど、その大前提は「見え難く」、その共通性がかえって両者の対話の妨げとなるのだ。

サヨクはすぐファビョるから半島系」というような主張を、よく2ちゃんねるで見かけるけど、(私も思わず同意してしまうことがあるが)、これは、「過剰な現実主義」に同一化して、自分の中の抑圧された「過剰な理想主義(権威主義、規範主義)」を投影しているのかもしれない。そう言えば、明治維新の志士たちはまさに「ファビョ」っている。