安心社会から信頼社会への移行をグーグルが強制している

日本教を語る上で欠かせない3冊 - アンカテという記事へのトラックバックで、関連するオススメ本をたくさん教えていただいた。

知らない本も多いけど、紹介者の顔ぶれから判断して、たぶんどれも読んでおくべき本だと思う。というか、大学で4年間かけて、これら全てを一冊づつじっくり読みこむような学部があるべきではないだろうか。日本でも、たとえば社会契約論の専門家やそれをそれなりにきちんと勉強した人は相当いると思うのだけど、それと同じくらいの厚みで「日本教」の専門家や教育があってしかるべきだろう。

ここにあげられた本を全部きちっと読みこんで、多少乱暴でもいいから体系化して一つのカリキュラムとして整理したら、それは日本に対する寄与としては凄いものになると思うのだけど、何となくそんなことしても評価されないような気がする。

それはともかく、大変重要な本を見落していた。(たぶん上の三人の方も知っていると思うのだけど、何で抜けてるのかな?意外な盲点?)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)
安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

検索したら、ちょっと難しいけど、いい紹介エントリがありました。

これ、ストリートビューに対する日米の反応の違いをベタに説明できるのではないだろうか。

山岸氏の研究は、「知らない人を信頼する度合いが、アメリカより日本の方が低い」ということを、社会心理学的実験で実証したものだ。日本人が安心できるのは、何らかのコミュニティの内部で相互監視による抑制が働いている場面のみで、その枠が無い時は、日本人は他人を信頼できないという。

日本人が自分ちの庭をオープンにできるのは「安心」しているからであって「信頼」しているからではない。

「安心」と「信頼」は山岸氏の研究でキーとなる概念で、「安心」は、道ゆく人が社会から暗黙の規制を受けていると思うことで、「信頼」とは、規制されてなくても人間というものは普通悪いことはしないと思うこと。

日本人は他人を「信頼」してないけど「安心」している。アメリカ人は「安心」してないけど「信頼」している。

そもそも「安心」という概念がなくて、他人への一般的な「信頼」が基礎になって成立している社会にとっては、別にどうということはないけど、他人を「信頼」できない人にとっては、ストリートビューは「安心」をぶち壊すとんでもないものに思える。

自分なりに別の観点から整理してみると、

  • (A) 二車線以上の道路や駅などのパブリックな空間
  • (B) 路地のようなコミュニティの空間
  • (C) 家の内部のようなプライベートな空間

と分けた場合、アメリカでは、(A)と(B)の境界は不明確で、(B)と(C)の境界がきっちり仕切られている。路地だからと言って「安心」できるわけではなくて、家の外であれば、そこは駅や繁華街と同等である。しかし、(A)(B)両方ひっくるめてほぼ同じレベルで「信頼」している。

日本では、(B)は「安心」できる空間であって、「安心」も「信頼」もできない(A)とは全く別の性質の場所だ。だから、(A)と(B)の境界が重要で、その代わり(B)と(C)の境界がぼんやりしている。

ストリートビューは、(B)のコミュニティの空間を(A)のパブリックなレベルと同等にするものであり、(A)と(B)の境界を重視する日本において大きな衝撃となる。

それと、おそらくアメリカでは「パブリック」であるということは「みんなのもの」ということになるのだけど、日本では「みんなのもの」と言う時には「コミュニティのもの」を意味していて、「パブリック」という言葉は「お上のもの」という風に理解されているのではないだろうか。つまり、日本にはコミュニティの外部にある「みんな」という概念がなくて、「パブリック」という概念を本当の意味では理解してないのである。

グーグルのサービスはストリートビューに限らず、「パブリック」な領域を広げ、不特定多数の他人への「信頼」を強制する性質があるので、「安心社会」とは相性が悪い。

私は、「安心社会」はすでに崩壊しているので「信頼社会」に切り替えていくべきだと思うけど、ストリートビューに対する反応を見ていると、「安心社会」への執着には根深いものがあるようにも思える。

それならそれで、一刻も早く、(山岸氏も含めて)日本教の社会理論を体系化して、社会契約論のように違う文化に属していても順番に本を読めば誰にでも勉強できるようにすべきだと思う。