君は PC-98 VS DOS/V 戦争を見たか?

Ian MurdockのOpen source and the commoditization of softwareは、


我々の人生を確実に襲うものが二つある。税金と死だ。そして、IT産業で生きる者は、このリストにもうひとつ付け加えるべきものがある。それは「日用品化」という現象だ。(超訳 by essa)

という印象的なフレーズではじまり、


「日用品化」という現象に逆らうよりは、それを乗りこなす方がずっといいだろう。

という、あたりまえの結論で終わります。中身は、「日用品化(commoditization)」という概念をキーにした、コンピュータ産業の歴史の概説です。。

日本でこれが書かれたら、PC-98シリーズのことに触れないわけにはいかなかったでしょう。

かって、パソコンにとって日本語処理がたいへんな負担であった頃、PC-98シリーズは、メーカーによってよくコントロールされたひとつの商品でした。パソコンで日本語を入力し、日本語文書を作成し、日本語文書を印刷する。それは大変な苦労であって、緊密に連携する一連のソフトとハードを必要としました。インターフェースを楽にする為の、余分なCPUサイクルやメモリ容量はありませんでした。精密に組み立てられた、特定のハードとソフトの組合せでないと、実用的な日本語処理はできませんでした。

しかし、パソコンの性能が上がり、日本語表示を特殊なハード無しにソフトで行なうことが可能となった時、一気に流れが変わりました。DOS/Vの日本語表示は、公開されたAPIによって、ソフトで行なわれました。PC-98シリーズは、ソフトで日本語を表示する為の、余分なCPU性能とメモリを必要としません。同一のスペックのマシンでは、常にPC-98の方が速かったはずです。

しかし、その余ったCPUとメモリを誰も必要としてはいなかったのです。

余ったCPUとメモリは、インターフェースの標準化以外に使い道がありませんでした。そして、それをインターフェースの標準化に使うことで、日用品化されたパーツの組み立てだけで、日本語処理が可能な安いパソコンができあがってしまったのです。

当時は、「PC-98がなくなる」と言っても、誰も信じてくれませんでした。私にとって、その経験は貴重な財産なのだと思います。その時のPC-98シリーズの磐石さ加減は、経験してない人に説明しても絶対に理解できないでしょう。絶対にひっくりかえらないだろうと、誰もが思っていたものが、一瞬でひっくりかえってしまったのです。

新しいマシンの性能向上がユーザに使えなくなった時に何が起こるか、それを私は知っているはずなのですが、その経験を正しく活用できるだろうか?と自問してしまいます。

今、この文章は、1999年に発売されたThinkPad 570で書いているのですが、去年発売された最新のマシンでブログを書いていた時と、たいした違いがありません。関連文書の検索や確認の作業(一応やっているのですがたまには、こんなこともあります(^^;;たかはしさんありがとうございました)も含めて、立ちあがってからはそれほどストレスを感じません。

そして、WindowsLinuxに乗りかえても、Firefox, Tunderbird, Emacs中心で作業している限り、違いを意識しないですむということが重要でしょう。そして修理が終わったらWindowsに戻す予定ですが、自由に行き来できるだけの基盤が整えられつつあることを実感します。

これからは、多くのソフトが、上記三つやEclipseのような、プラットフォーム的なソフトの上に構築されるでしょう。サーバ側でも同様です。これらのソフトが、ISAバスやSIMメモリのような「標準」の機能を果たすようになって、ソフトウエアの「日用品化」が急速に進行したら、PC-98からDOS/Vへの移行のような、ドラスティックな変化が一気に起こるかもしれません。

それを経験しているというのは、アドバンテージだと思います。年を取ることも悪いことばかりじゃない。

(追記)

梅田さんからコメントをいただきました。

梅田さんが言っても「誰も信じなかった」という話を聞いて、うれしくも悲しい。自分の説得力不足だけが原因ではなかったかもしれなくて少し安心だけど、それでは、誰がこういう意見に耳を傾けるのかと思うと悲しい。

でも、それも含めて貴重な経験ですね。

しかし、引用されている梅田さんの12年前の分析は恐しいほど正確だ。