若貴兄弟の背負ったもの、背負わされたもの

二子山親方の葬儀を巡り、若貴兄弟の亀裂が浮かび上がったそうだが、これは「どちらが父の本当の望みを正しく継承しているか」という確執ではないかと思う。

おそらく二子山親方は、若貴それぞれに、違う自分を見せていた。どちらも父の本当の気持ちであり、若貴兄弟は二人ともそれを自分で背負っているのだ。先代貴ノ花にとって相撲とは何であったのか、父の人生にとって相撲がどういう位置を占めていたのか。父は、そこに深い葛藤をかかえ、それに苦しみ、二人の息子はそれぞれにその思いを見ていた。

弟、貴ノ花にとって、相撲とは単なるスポーツではなく相撲道であり、自分の人生を全て捧げるべきものである。それが父の生き方だと信じているから、部屋を引き継いで親方となった自分が当然、喪主をつとめるべきであった。

しかし、兄、若乃花にとって相撲とはスポーツであり、興業としてのプロスポーツであり、もちろん、父の人生にとって大半を占める重要なものであったが、それは父の全てではない。父の相撲との関係は彼の生きた時代を反映してそうなっただけで、もし、父が今この時代を生きていたら、自分のような相撲と距離を置いた一人のアスリートとしての人生も、父にとって選択肢のひとつであったはずだ。だから、父の葬儀は家族として行なうべきで、長男である自分が喪主となるべきだ。

それが、自分自身の信念や生き方の問題なら、妥協の余地がある。よく話あって自分で判断して自分が納得できたら変えればよい。しかし、もう亡くなってしまった人の望みであったら、残された者がそれを自分の都合で変えてしまったり、都合よく解釈を加えてしまうのは失礼だ。

二人の息子は、それぞれが、自分の生き方と信念は父から受けついだものだと信じていて、だから、妥協の余地はない。家族より相撲が上にくる弟は、「修復はあり得ない」と言い、相撲より家族を重視する兄は、父の残した家族だからこそ、最後まで弟との関係修復を模索する。

兄弟の葛藤はずっと続くとだろうが、それは二人が始めたものではなく、父の内面深くでおそらく二人が生まれる前から育っていたものだ。父は、相撲と自分にとっての家族との葛藤に決着をつけられず、それを半分づつの真実として二人の息子に見せた。どちらも、自分がこの目で見た父の本当の気持ちだから、息子たちは譲れない。

亡くなった人の気持ちを背負ってしまったら、それを今、この瞬間の現実に適合させることはできない。その気持ちは、彼が死んだ日に凍結されて変更不可能になっているのだ。それは、自分たちで解くことができない「呪い」と呼ぶべきものだ。

この悲劇は、これからも何度となくテレビで放映され、その葛藤を目にしながら、日本じゅうの人がいろいろなことを言い、いろいろなことを考えるだろう。大相撲は伝統的美意識にのっとった由緒正しい世界であるが、呪われた家系の神話というものも、やはり伝統的に必要とされているものである。