世間、社会、権力、そしてネット

id:flapjackさんの共同体圧力の増大という文章に興味を持って、どんどんさかのぼって行ったら、世間学なんて話が出てきました。

flapjackさんは、これを受けてこちら


本当におもしろいことは、ヨーロッパのなかでは「世間」的なものが、日本みたいにすべてをおおっていなくて、それが「社会」とか「個人」とかという枠組みのなかに位置づけられるというか封じ込まれている、ということなのだとおもう。

とおっしゃっています。ヨーロッパには「社会」というものがある、個人(=自己決定)の総意としての「社会」は確かにある、だけどそれだけではなくて「世間」(のようなもの)も一方で確かにある。日本と違うのは「社会」と「世間」が緊張関係、対立関係にあることだ、という風に理解しました。

これは全く同感です。日本では「社会」と「世間」がつるんで意地悪をしてくる、だから息苦しさが大変なものになって、救いがないわけです。

それで私は、ここに壮大な実験場としての意味があると思います。

つまり、日本以外では、情報技術の進展によって発生する社会的な問題というのは、常に「社会」と「世間」の対立関係の中に解消されてしまうわけです。つまり、新しく起こった問題を古い枠組みの中で処理することができる。それは、同時代人にとっては幸福なことですが、その為に問題の本質が見えてこない。

著作権とか名誉毀損とかRFIDとか、そういう問題は全て、大きく言えば民主主義の問題とか言論の問題として処理できる。新しい技術によって発生した新しい「権力」を「社会」が取るか「世間」が取るか、という古くからある問題の新なバリエーションとして処理し得るし、実際にそのように処理されていくわけです。

日本にはそんな便利なものがない。

新しい技術も新しい権力も「社会=世間」が総取りしてしまいます。「社会」と「世間」が喧嘩しているように見えても、結局は馴れ合いの出来レースで、「社会=世間」複合体が新しい武器をまたひとつ手に入れたという結末になるのが見えています。

ですから、日本人はネットというものを世界のどの国より切実に必要としているのです。これで「社会=世間=セキュリティ権力」を解体しないと死んでしまう、このまま行ったら窒息してしまうという危機感を誰もが感じているのではないか。

本家スラッシュドットはいかにも「言論」っぽいです。もし、日本でネットを「言論」っぽくやったら「社会=世間」複合体の罠にからめとられてしまいます。「言論」は「社会」の構成要素でそこに「世間」が忍びよってくるんです。2ちゃんねるはそれを回避するために「言論」っぽくなくできていて、そのことが支持されているのだと思います。

WEB日記VSブログ論争の背景にも似たような事情があるのではないでしょうか。洋物的な意味でのブログは、いかにも「自立した個人」が書いている。「自立した個人」が「世間」と対立した場合、(欧米でもそれが無限定に容認されるわけではないですが)、いくらかでも「社会」が助けてくれる。


たとえば、イギリスのミドルクラスの父親がセックススキャンダルにまみれてしまったりすると、その家は、もうレスペクタブルではなくって、その家の娘はだれとも結婚できなくなってしまう、とか。

flapjackさんはイギリスの「世間」的なものとして、こういう例を上げていますが、そういう「世間」から見放された人でも、「社会」は最低限の人権を保証してくれると思います。日本では、そういう人の人権は保証されないで実質的に抹殺され、しかもそのことの責任を「社会」も「世間」も取らないでいいように、両者の間で絶妙なパス回しが行なわれています。

日本では「自立した個人」であることはすごく危険なものです。WEB日記にはそういう「自立した個人」性を薄めて、「社会」とも「世間」とも積極的に対立しないようにして、危険を回避するノウハウが仕組まれていたのです。そこへ、「ブログ」がそういう微妙な事情を斟酌することなく乗り込んできて、ある部分で「新しいビジネス」、ある部分で「自立した個人による情報発信」という形で、鐘や太鼓を鳴らしながら「社会=世間」の注目を集めて、その上で「ブログ=WEB日記」という論理で、そういう危険地帯に巻きこもうとしたわけです。

その無神経に対する怒りがあの論争の背後にあったのではないでしょうか。

「社会」と「世間」が分離されてない社会では、「言論」との距離感が非常に難しいのです。間違った場合に救いがない。そういう社会ではネットに対する期待はより大きいものがあるのです。「言論」の媒体としてのネットではなくて、「自立した個人」が声を上げるためのネットではなくて、ネットにしかできないもっと別の何か。ただ、それが具体的にどういうものか表現する手段がないだけです。その必要性を声高々に「言論」として表現することは難しい。どうしても潜伏してしまうのです。表面化、言語化しないけど、そういう切実なニーズがあると私は思います。

ですから、ネットというものの本質について観察するには、この国で起こっていることを見るのが一番です。何のインセンティブがなくても、この国の人は必死でそれについて考え、それの使い道を模索する。常にそれは生死に関わる問題だから。

要するに、ネットについては日本が先進国なのです。基本的に他の国のことは何も参考にならない。自分たちで考えるしかありません。ただ、いつかそれを誇れる日が来ると思います。その苦闘と模索は後世の人に何か貴重なものを与えることでしょう。やせがまんかもしれませんが、20世紀のソ連に生まれた人のように、「壮大な実験場」で生きることに幸せをかみしめるしかないのです。