音羽の事件その後

単独登山中に転落して怪我をしたとして、手を痛めるのと足を痛めるので何が違うか?手ならば移動できるけど、足をやられちゃうと移動できない。トラブルが救助を妨げる性質を持っていると、たいしたことなくても事態が深刻化することがある。

これはルポライターの方の公判傍聴記だが、非常に詳細で客観的なルポで、加害者の山田被告が追いつめられていく過程がよくわかる気がする。

被告に精神的な問題があったのは明らかだが、問題はそのトラブルが救助を妨げる方向に働いていることだと思う。治療を受ける=自分はビョーキ=駄目人間で脱落者 というかたちの抵抗は誰にでもあるのだが、脱落者という烙印をどの程度致命的なものと感じるかが普通の人と違う。そこに被告の病気があって、その烙印を極度に嫌がってしまうのだ。それで、どんなに苦しくても治療、救援を求めることができなかった。おそらく疲れて弱れば弱るほど病気が強まり、治療への抵抗が増していくような精神的な回路があったのではないか。(参考 被告のカウンセラーの分析)

現代日本のように、規範、共同幻想が壊れつつある社会に住むことはハードである。そのことがもっと常識になればよいと思う。昔の人が安定していたのは、本人の力でなく社会のささえがあったからであって、心理的なささえ無しに全て自分で価値判断して生きるのは大変なことだ。

昔の人と同じように普通に生きている人には、どこか無理にがあると断言してもよい。環境が根本的に違うのに同じ行動をしていたら、無理して行動をねじ曲げていると見るのが普通の見方だ。無理が本人の努力で完結しているならいいが、たいてい何かに目をつぶり人に迷惑をかけることにつながる

ここに書いてあるように、単に母親であることも大変なことなのだ。


他にも例をあげて、検察官は、山田被告が疲れを感じるのが理解できないと言った。そうだろうか?私には理解できるのに。そう思った。子どもが同じ幼稚園であったり、同じ公園で遊ぶ仲間であるがために、価値観が違う人からいやなことを言われても、常識はずれのことをされても、いやな顔をしにくい。それが典型的な母親ストレスのひとつではないか。

男にはわかりにくい感覚だが、ネタ元の育児板のスレを見ても、育児に伴う母親同士のつきあいが相当大変であることが感じられる。このスレは、加害者よりに立つ人と被害者よりに立つ人がなかなか深い議論をしているが、どちらの立場の人も母親同士のつきあいの困難さについては共通認識があるようだ。

そこで俺は自問する。「この困難さを理解できないのか理解したくないのか?」理解できるけど理解したくないです、と正直に認める所から自分の中の無理を探る旅がはじまる。