読書ノート「シェアウエア」金子郁容監修

経済学の根本的な原理に「経済的合理性」という言葉がある。難しそうな言葉だがなんのことはない。目の前に50円のりんごと100円のりんごがあって、どちらも全く同じ味だったら、どちらを買うかという話だ。こういう時に、人間は必ず50円の方、つまり、安いほうを買うと決まっているというのが、「経済的合理性」という言葉の意味だ。人間は全員こういうふうに同じ物なら安い方を選ぶということを仮定して、すべての経済学というものが成り立っている。

これは誰が考えても当たり前で、そんな難しい言葉使うまでもないと思うだろうが、そういう根本的なことが成り立たなくなるのが、ソフトウエアの世界でありネットワークの世界である。LINUXというOSが存在することがその証拠である。これは無料であり機能や性能はWINDOWSに匹敵するかそれを上回るので、ユーザが増えることには何も不思議はない。問題は、多くのプログラマーがこれに参加することだ。この場合は、供給者としての「経済的合理性」の問題で、同じ労働をして対価をもらうとき、1万円もらえる職場と2万円もらえる職場があれば、誰でも2万円もらえる職場で働くというのが、「合理的」な行動である。

多くのユーザがその開発に参加する。夢みたいな話だが、まぎれもない現実である。経済学者はこういう問題にどう対応するのだろうか。

この「シェアウエア」という本は、この問題に対する経済学者からのひとつの答えだと思う。監修者の金子郁容はプロパーの経済学者とはいえないが、一応「教授」であり経済学や経営学に近い分野で活動している。この人の教え子二人の研究論文をもとにできたのがこの本である。

目次にこの本の意図や特色がよく現れている。この本はシェアウエア作者へのインタビューを集めた本なので、当然かもしれないが、目次にはたんたんとシェアウエアの名前がならんでいる。秀丸やFILEVISORなどの有名なものもある。そのシェアウエアと作者の名前がそのまま章の見出しになっているのだ。そして、もうひとつの趣向があとがきが「README.TXT」という名前になっていることだ。

このように従来の理論の枠組みでは扱えないことを扱おうとするのなら、こういうフィールドワーク的なやり方、つまり何の先入観もなしにありのままの現実を広く捉えることからスタートするのが、最も正統的なやり方だろう。そして、その多くの枝葉末節の集まりの中からひとつの結論が、隠し絵のように浮き上がってくる、そういうスタイルを目指しているように見える。そしてその方法は、ちょっとわざとらしいのがたまにきずだが、かなり成功している。

一番、典型的なのは経歴も考え方もシェアウエアへの取り組みも全く違う作者が、くどいくらいに同じことを言うことだ。「このXXというソフトは私が作ったのは70%くらいで、後の30%はユーザの人が作ったようなものです」という発言が何度も出ている。この数字は作者によって多少違うが、誰もが同じようなことを言っている。また、逆に誰もが言いそうで言わない言葉もある。シェアウエアにつきものの未送金ユーザを非難する言葉だ。「送金しない人は自分の視野にない」とか「送金しない人にはそれなりの理由があると思っている」という発言はあるが、ストレートにそういうユーザを非難する人はいない。

それ以外の話の内容がバラエティーに富んでいるだけに、このような共通点は際立って見える。著者の主張が直接的に述べられている部分はかなり少ないのだが、このようなインタビューイの言葉の中にインタビュアーの強烈な主張が見え隠れしている。

直接的な主張として目に付くのは、先進的な販売方法を取っている企業、特にソフト、コンピュータ関連のトップ企業との違いを強調していることだ。同じ、ネットワークという土俵で勝負しているので、ひとつにくくられがちだが、ネットワークや情報技術を活用して画期的な経営手法を実践している企業のあり方と、この本で述べられているシェアウエアという現象は、全く別の流れだ、ということを著者は強調している。

例えば、シェアウエアはユーザの意見がダイレクトに反映されているのだが、これはゲートウエイなどがオンラインでユーザの注文どおりに受注する、いわゆるBTOという販売方法とは全く違うという。BTOの場合は、ユーザの注文に個別に答えるとしても、提供される商品はすでに完成された静的なシステムである。これに対して、シェアウエアの特色は、いろいろなバグ情報や要望事項をオンラインでディスカッションして、それを開発者が取捨選択して実際のソフトに反映させていく、という開発のプロセスそのものにユーザがかかわることがポイントだという。そして、多くのシェアウエア作者が、シェアウエアという販売方法を選ぶ理由もそこにあるという。特に、驚くのがフリーウエアにしないでシェアウエアにした理由を(これも複数の作者が)「フリーウエアだとユーザからの反応がなかなか来ないから」だという。シェアウエアにして、いくばくかでもお金を払うことで、モノが言いやすくなり、自然のユーザの声が集まりやすいからシェアウエアにしたというのだ。

こういう「プロセスへの顧客の参加」と同じように、最近の経営学でホットな話題となっているのが、「顧客間インタラクション」という言葉である。これまでの常識では、ユーザの反応というのは、ユーザ対提供者である。クレームにしろ、改良の要求にせよ、感謝の言葉にせよ、コミュニケーションはユーザから提供者へ、そしてのその返答が提供者からユーザへ、と流れるだけで、ユーザ同士の対話というのは存在し得なかった。しかし、シェアウエアの世界では、ユーザ同士の対話が基本にある。あるユーザが要望を出しても、それがダイレクトにソフトに反映されるわけではなく、「そういう機能はこの機能を使えば実現できる」「そういう機能よりこれが重要だ」「そういう機能をこのように実装すればこういう場面でも使えて便利」という他のユーザからの反応があり、ディスカッションを経て収束していく。もちろんこの対話には開発者も参加するのだが、それは特別の意見、絶対的な意見ではなく、重要なメンバーではあるがあくまでコミュニティの1メンバーとしての発言でしかない。重要なのは、顧客同士のディスカッションが存在することである。最近の経営学では、こういうことを「顧客間インタラクション」と言って、企業が自分のユーザ同士にどのようにこういう相互作用を起こさせるかというのが、問題になっていて、そのためにいろいろ苦労しているらしいが、シェアウエアはこういう難問を軽々とクリアしているというのだ。

こういうふうに、シェアウエアというのは最新の企業経営と多くの接点を持ちながら、全く違う要素も持っている。これをひとことでいうと「シェアウエアは産業にはなりえない、それはひとつの文化だ」という言葉になる。(この言葉もある開発者、それもシェアウエアの収入だけで食っている数少ない開発者の一人から引き出した言葉だ)

他にも「情報は孤立していては意味がなくつながりがあって価値を持つ」とか「瞬間の市場シェアでなく、顧客の生涯で繰り返し繰り返しオーダーをもらう顧客シェアという考え方」など、興味深い話はたくさんあったが、最も私が興味を引かれたのは、「シェアウエアの開発者は自分を低い位置に置く、すると水が高い所から低い所に流れるように、情報が流れ込んでくる」という考え方だ。この考え方にもまた「バルネラビリティ」という述語が割り当てられていて、この言葉は私にはもうひとつピンとこなかったが、この概念自体は非常に重要なことだと思う。

シェアウエアは最終的にはお金をもらうということで、かろうじて経済的行為なのだが、オープンソースは全くそうではない。それにもかかわらず、コンピュータにかかわる企業はソフトであれハードであれコンテンツであれ、みんなこれに群がっている。私は、この流れはソフトやコンピュータ、まして技術の話題でなく、社会全体が大変動を起こし*資本主義というシステム自体が崩壊する前兆だと思うが、そのようなオープンソースというよりラディカルな流れにつながる部分に注目している点で、非常に注目すべき本だと思う。