ユーザ体験原理主義者
「違ってるのはURLくらいじゃないか!」てことは「日本人向けの番組」にはTV番組等のキャプチャ(の違法アップロード)を想定していた?
このツッコミをいただいて、気がついたことがある。
それは、rimoやYouTubeについて、私は次の3つのレイヤーで別々に考えているということだ。
- お茶の間のテレビでネットで配信されたコンテンツを見るというユーザ体験
- そのコンテンツを巡る社会経済的なシステム
- ネット上でコンテンツ配信を可能にする技術的な仕組み
そして、私が、「自分はrimoを予知してた」と書いた時に想定していたのは1のユーザ体験のレイヤーのみである。元のアンカテ(Uncategorizable Blog) - 地デジ VS (iPod+(ドッグイヤー2.0)*5)という記事を書く時に思い浮かべていたのは、ユーザ体験のレイヤーのみであって、そこについては、今は現実にたまにしていることだけど、お茶の間でWiiからrimoを見ている経験とかなり近いものを強くイメージしていた。
一方、rnaさんが「rimoの出現を予知」という言葉で思い浮かべたのは、2の社会経済的なレベルではないかと思う。むしろ、それが普通の考え方なのかもしれないが、このレベルについては「予知していた」とはとても言えない。
そのレベルについて考えていたこともいろいろあるが、こちらについてはむしろ凡庸な予測しかしていない。漠然と「既存のコンテンツ供給者が既得権益を明け渡すような動きをすることはまずないだろうな」と考えていた程度だ。強いて言えば、アメリカでそういう革命が先行するだろうなとは思っていたけど、それが直接的に日本のユーザに影響を及ぼすなんてことは、全く予想していなかった。
そして、3の技術的なレベルではもっと明確に間違えていて、大規模な動画配信は、何らかのマルチキャスト的なシステムによって行なわれるだろうと思っていた。つまり同じ「極楽加藤の謝罪動画」を構成する中身の同じパケットが、日米間を何十万回も行きかうなんていう、無駄の極みのような原始的な技術で動画配信が実用化するなんてあり得ないと思っていた。
同じ国で、つまり回線の構成から言って近い所にいる複数のユーザが同じ動画を見るならば、日本に中継するサーバがあってそのサーバが一度だけアメリカに取りに行ったら、その後は、日本のユーザは日本の中継サーバからパケットを受けとる形になるだろうと予測していた。単純なクライアントサーバ方式のWeb(HTTP)でこれをするのは難しいから、何らかの形で技術的な革命が先行すると予測していた(P2PやIPマルチキャストの発展形みたいな感じのもの)。これは、技術的にはまっとうな考え方だと思うけど、結果的にはおおはずれだったわけだ。
ただ、私は、rimo+Wiiのユーザ体験を予測していたらそれだけを理由に「rimoを予知した」と言っていいと考えて上の記事を書いたし、その考えは今でも変わらない。
つまり、rimoやYouTubeの本質はあくまでユーザ体験なのだと私は考えている。それがrnaさんの指摘を受けて気がついたことだ。
あるユーザ体験が多くの人に求められているなら、社会経済のシステムや技術的な基盤はそれに合わせて振り回されるべきだと私は考えている。
rimoやYouTubeを批判するとしたら、批判する人はそれに対抗するようなユーザ体験を提示すべきである。もしくは、それによって失われる既存のユーザ体験の価値を訴えて、それを主たる論拠とすべきだと考える。ユーザ体験Aとユーザ体験Bが、互いの価値を競うような議論がまっとうな議論だと考えている。
あまり自覚してなかったが、そういう意味で、私は「ユーザ体験原理主義者」なのだと思う。
それと、他のレイヤーについて無視するわけではないが、レイヤーごとに全く違う頭の使い方をして考えているようで、このへんももう少し考えてみたら面白そうな気がする。