ヴァーチャルと別のヴァーチャルの分水嶺

2008年は、ネットとリアルの本格的な衝突が始まった年だと思う。毎日新聞の変態事件とかダウンロード違法化とかストリートビューの問題とか、ある意味では以前からあった形の衝突ではあるけど、一段と混迷の度合いが深まり、のっぴきならない事件となった例が多かったように感じる。

それは、ネットが社会の前面に進出したとも言えるし、一つの壁にぶちあたったと言うこともできるだろう。

あまり社会の形を変えないでもネットを取り込める領域が全部埋まってしまい、その領域の外側にはみ出し始めたということだ。

一方で、ネットブックの大ヒットも大きな変化だと思う。

シンクライアントというコンセプトは、1996年のNC(Network Computer)からずっと言われてきたもので、決して目新しいものではない。しかし、マイクロソフトやパソコンメーカがこれを押し止めることができなくなったことは一つの分水嶺になるだろう。

今までは、「もうパソコンの性能がこれ以上向上しても意味がない」と言われ出すたびに、インテルとかも一緒になって、GUIとか3DCGとか動画再生とか、何かしらそれまでのパソコンではできないネタを捻り出して、最新機種に意味を与えてきた。どうにかそれが通用したので、シンクライアント的なものの普及を、あるレベル以下に留めることが可能だったのだ。

ネットブックの登場は、いよいよそれが無理になったというシグナルだ。ムーアの法則が、新しい機能の開拓でなくコモディティ化に向い出したということを意味している。

もともと、ネットは光ファイバーの塊でパソコンやルータはシリコンの塊だ。どちらも固定費や設備投資は相当な金額になるが、原価がほとんどかからないハードである。機能向上が頭打ちになると、固定費をかけないで安価な製品を売ることが可能になる。

そういう意味では、SSDの普及も見た目より重要な出来事かもしれない。パソコンの部品の中で、シリコンのような作り方ができない、モノらしい性質を持つ部品が一つ無くなるからだ。

新しい製品を開発しないでよくなれば、食料や直接的間接的に石油に依存しているモノより、ネットへのアクセスの方が安くなるだろう。

だから、ハードとしてのネットの普及はこれからも継続するし、ネットブックがそれを加速する可能性も高い。

一方で、ソフトというか社会の方にはその準備ができていない。社会の中にあったバッファーを使い切ってしまっている。皮肉なことに、ちょうどクッションが無くなって「いったんストップしてくれ!」というタイミングで、ハード的な要因で普及の圧力が加速しはじめた、ということではないだろうか。

ここで何が問われるかと言うと「ヴァーチャルとは何か」ということだ。

ネットはヴァーチャルだと私は思う。ネットで食欲を満たすことはできない。しかしこれまで社会で重視されている価値もほとんどがヴァーチャルだ。

ヴァーチャルなものがリアルなものを置き換えることはできない。しかし、こういう文脈でネットに対置して「リアル」と呼ばれるもの、お金とか法律とか政治とか、そういうものはほとんどヴァーチャルだ。人々が合意するから意味を持つものであり、その合意が無くなった時には全く無意味になってしまうものだ。

ネットはヴァーチャルなものを際限なく置き換えていくと思う。

ただ、ヴァーチャルであるということは、柔らかいということではない。ヴァーチャルなものを動かす時には、人の気持ちが限界となり、その壁がすごく固いのもののように見えることはある。

今年我々が見た数々の衝突はその壁なのだろう。

コンピュータは万能シミュレータなので、リアル(と一般的に呼ばれている古いヴァーチャル)のシミュレーションをすることも可能である。

たとえば、新聞をファイルとして販売店に送信し各家庭から販売店にアクセスして毎朝新聞を読むこともできるし、ストリートビューへのアクセスを地域の居住者だけに限定することもできるし、ダウンロードを取り締まったり課金することも可能である。

リアル(と一般的に呼ばれている古いヴァーチャル)をネットでそのまま置き換えても、コストは安くなるし何か便利なことはできるだろう。今は無理でも、ネットが食料より安くなる頃には充分採算が合うようになる。その日はそんなに遠くない。

ただ、それをするには、「今までそうしてきたから」「そうするしかなかったから」ではない、きちんとした理由が必要になる。そのことに意味があって、それが合意されれば、古いヴァーチャルをネットの中に再現することは可能である。理由を説明できない人がネットを悪者にするのは筋違いだ。「ヴァーチャルなおかしな方向に世の中が進んでいる」と言うのも違う。

「合意されてない一つのヴァーチャルが別のヴァーチャルに置き換えられた」と見るべきである。ネットごときに置き換えられてしまうようなものは全部ヴァーチャルなものであって、人間にとって大事なことは他にいくらでもある。

光ファイバーとシリコンのコモディティ化はまだ始まったばかりである。少なくとも電卓、おそらくは食料のレベルまで値段は下がる。だから、社会の中で何がヴァーチャルなものなのか、そのヴァーチャルにどの程度合意があるのか、いろんなレベルで総点検すべきである。

ハード的な制約が無くなった時に、人の心がどれほど固いものなのかどれほど柔らかいものなのか、それはやってみなくちゃわからないだろう。


一日一チベットリンク「デマ流布」と59人逮捕 中国チベット自治区 - MSN産経ニュース

(12/28 追記)

タイトルの表記を間違えて、タイトルの無いエントリーになっていたのを修正しました。