初音ミクに便乗して創発的権力論再び

こんなブログが出来ていて、2ちゃんねるだけでなくブログでの言及も凄い数になっているようです。

私は前のエントリに書いたように、これは人為的な削除ではないと見ていますが、これを人為的な情報操作と見て怒っている人が多いようです。私も、もしそんなことが本当に起こったら同じように怒ると思うので、その感情的な面には非常に共感しています。この騒ぎは単なる空騒ぎではなくて、この手の情報操作がいかに大きな反作用を呼ぶかということについて、特に旧メディア側の人に理解してもらういい機会になると思います。

ところでしかし、この怒りは、何に対する怒りでどこに向かっているのでしょうか?グーグルの中の人が電通の依頼で削除コマンドを打ち込んだとしたら、我々は何を失うのでしょうか?我々の怒りは何を求めているのでしょうか?

それはもちろん、削除コマンドを取り消して、元の状態に戻すことです。では、その「元の状態」とは何か。

それは、検索エンジンのプログラムが処理した結果を操作することなしにそのままユーザの画面に出力することです。

これ、冷静に考えると不思議なことです。だって、その「元の状態」とは、結局、グーグルの中の人が書いたプログラムですから。

グーグルの中の人が書いたプログラムなら信じられる(受けいれる)けど、グーグルの中の人が誰かからの圧力によって打ち込んだ削除コマンドは信じられない、受けいれられない、私が感じたショックの意味はそういうことになる。

グーグルの中の人がプログラムを書いて動かすと我々は喜んで、コマンドを打ち込むと我々は凄い勢いで怒るのです。同じ中の人がやってることなのに、「プログラム」と「コマンド」で、どうして全く正反対の反応を呼び起こすのでしょうか?

グーグルは自社のことを「プログラム」の会社だと言ってきて、だからこそ信頼していたのに、「コマンド」の会社だったとはひどい裏切りだ、そう感じている人がとても多いことが、今回の騒ぎでわかりました。

つまり、「プログラム」は全員を平等に扱うけど、「コマンド」は人を差別する。「プログラム」が作り出したランキングは公平だけど、「コマンド」が作り出したランキングは不公平であると、そういう合意が我々の中に出来つつあるわけです。

広く共有されつつある、この「プログラム」への信頼は、やがて一つの権力となり、我々を支配するでしょう。「権力」とか「支配」みたいにラスボスっぽい言葉を使うとビックリする人がいるかもしれませんが、民主主義で運営される政府も一つの権力であり、我々はその支配を受けています。「権力」とは「権力」以上のものでもないし「権力」以下のものでもないし、いい悪いを簡単に決めつけられるものではありません。「権力」はあくまで「権力」です。

ただ、今生まれつつある「権力」は、我々がこれまで経験してきた「権力」とは、相当違う形のものになるはずです。

そのような新しい種類の権力を指す言葉として、私は「創発的権力」という言葉を造語して、ずっと考察してきました

そして感じていることは、我々は、「創発的権力」について批判し制御する為の枠組みをまだ持っていないということです。

電通とグーグルが結託するという陰謀論は、私に言わせれば非常に筋が悪い。

電通が権力でありグーグルも権力になりつつあるということは同感ですが、両者が全く違う方を向いていることに注目すべきだと思います。電通は「コマンド」の会社です。広告とマスメディアに何を出すか何を出さないかを決めることができる立場にいることが電通の権力の源泉です。グーグルも、メディアに何を出すか何を出さないかを決めることができる立場に立とうとしていますが、グーグルは「プログラム」によって、それをしようとしています。「プログラム」は「コマンド」より強いというのがグーグルの立場であり、それは電通アイデンティティそのものを全否定する立場です。

もちろん、グーグルもグーグル八分という「コマンド」を使いますが、それは、まだ「プログラム」が発展途上にあるからです。グーグルは、本当はグーグル八分を「プログラム」で行いたいのです。そのための研究を必死でしている所だと思います。

完全な自動化は原理的に無理かもしれませんが、「コマンド」を最小限にすることはできるはずです。

たとえば、ネオナチのサイトは相互にリンクしあっているので、極悪のネオナチサイトのURLを一つ打ちこめば、それだけでプログラムが全てのネオナチサイトを自動的にグーグル八分にすることはできるかもしれません。そのロジックとURLを公開していたら、その結果に文句を言えるでしょうか。「我々が使用するコマンドを極力減らせというのは初音ミク事件で示されたように、民意である。我々はそれを忠実に実行できる技術を手に入れたのだ」グーグルはその時そういうでしょう。

グーグルがネオナチを八分にした時、私は声をあげなかった
なぜなら私はネオナチではなかったから

グーグルが2ちゃんねるを八分にした時、私は声をあげなかった
なぜなら私は2ちゃんねらではなかったから

グーグルがある種のブログを八分にした時、私は声をあげなかった
なぜなら私はそういうエントリは書かないから

そして、彼らが私を八分にした時
私にリンクする者は、誰一人残っていなかった

なぜなら私にリンクするページは自動的に八分になるような「プログラム」によって、我々はその時支配されているからです。

「削除コマンドを打つな」「アルゴリズムを公開せよ」という要求は必要です。しかし、それだけは「創発的権力」を監視する視点としては、足りないものがあると私は思います。

関連記事: 創発的権力の汚染問題と純化問題

(10/22 追記)

真の政治的勝利とは何でしょうか。それはルールの中で勝利することではなく、ルールを決定する力を奪取することです。  

大衆には、常に結果としてのルールだけが示されます。そして「この土俵の中で公平に戦いなさい」というお手本が与えられ、勝った負けたや「ルール違反」が大衆の関心事を占拠します。枠の中に納まっていれば、清潔で公平であるような幻想に飼い慣らされていくのです。  

しかし、例え「ルール」の中の戦いがジェントルマンシップに則ったものであったとしても、ルール自体は常に暴力的に制定されたものです。「ルール違反」に対する怒り、「コマンド」に対する憎悪は、翻せばルール奪取の暴力を不可視化し、既成事実化してしまう釈迦の掌な一面があるのです。

これはこのエントリのわかりやすい解説だと思います。ぜひ、全文読んでください。