映像表現の「作品」性と「商品」性を制作コスト低下を前提として調和させるには

YouTubeにアニメをアップロードする人に「あなたは、そのアニメが好きですか、嫌いですか」と聞いたら、何と答えるだろうか。

おそらく好きでなければそもそもキャプチャーしようとはしないので、ほとんどの人は自分が好きな作品をアップロードしているのだろう。「自分はこれをとても好きだから他の人にもぜひ見てもらいたい」と思っている人が大半なのではないか。

それに対してクリエイターの人たちはどう思うだろうか。おそらく「自分の作品を好きになってくれることはありがたいけど、あまり大量にそれをやられたらこちらの収入に関わってくるのでそれは困る」ということではないか。つまり「ありがた迷惑」だと感じている人が多いと思う。

それは何故かと言うと、多くのアニメは「作品」であると同時に「商品」であるからだ。

「作品」としての側面だけに着目すると、「これは凄いよ、ぜひみんな見てよ」というアップロードする人の気持ちと、それを見て「おおこれは確かに面白い」という人の気持ちと、クリエイターの「ありがた迷惑」の「ありがたい」の部分は噛みあっている。

「商品」としては、アップロードする人はクリエイターの権利を侵害していて、彼の収入を減らし生活を破壊し、さらには制作活動を続けられなくなる恐れもあって、迷惑以外の何ものでもないだろう。

アニメに限らず映像作品には、「商品」としての側面と映像表現という「作品」としての側面がある。

「自分は一人の表現者としてアニメ作品を制作している」という意識が強い人であれば、「ありがた迷惑」の「ありがた」が強いだろうし、「商品として販売している」という意識が強い人であれば、「迷惑」の方が強いだろう。バランスはそれぞれとしても、大半の人は両方の意識を持っているだろう。

クリエイターの中にも両方の意識があるし、一つの映像作品の中にも両方の特性が混在している。

だから、映像作品や音楽や出版等、文化、表現に関わる商品は、普通の商品とは違う縛りがある。放送局には法的な参入規制があるし、再販制度があるし、各種の権利団体もある。そういう表現に関わる商品に関わる制度は、本来、「作品」としての側面を支えるようになっているべきだと思う。

つまり、素朴な「これいいよ」「ほんとだ、すごいね」という表現を鑑賞し感激する人たちの気持ちが、うまく商品としての流通につながっているように、その特権を生かして制度を維持していくべきなのだ。

しかし、文化に関わる商品に対し、「作品」でなく「商品」としての側面のみに関わる人たちがいる。特に映像の分野で「作品」を制作するにはたいへんなコストがかかるから、市場を通してそのコストを調達する人たちだ。たとえば、映画であれば、制作サイドでも純粋にクリエイターと言えるのは、監督、脚本、重要な役の俳優くらいで、音声やカメラや編集等の技術スタッフは「商品」を製造する過程に関わっているプロフェッショナルだろう。そして、宣伝や配給を行なう組織や映画館の人は、ほとんど全面的に「商品」としての側面に関わっている。

そのコストが膨大である分だけ、「商品」としての側面に関わる人はたくさんいる。

問題なのは、映像制作のコストが技術の進歩によって減っていることだ。カメラ等の機材はデジタル化され安くなり技術的なノウハウはソフトウエアに含まれてしまったりWebで流通したりして不要になり、宣伝や作品そのものの流通もネットを通して行なうことで、さまざまな過程が中抜きされる。

だから、「商品」として映像作品に関わっている人たちにとって、時代の流れに追随することは、ほとんど自分たちの取り分を減らし、最悪の場合、自分たちの職を失うことにつながる。それを受け入れることは難しいだろう。

これは、映像制作のような文化関連産業に限らず、ほとんどあらゆる仕事において起きていることだ。

たとえば、我々ソフトウエアの世界では、COBOLプログラマーという職種はほぼ消滅しつつある。COBOLというプログラミング言語はまだ使われ続けているが、20年前くらいにこの言語を使っている人たちが、「私たちの仕事はこういう仕事です」と思っていたような形の仕事は、ほとんどない。その頃のプログラマーと言うのは、かなり詳細な指示が書かれた文書をプログラムの形に移しかえて端末に入力する仕事である。同じ二ヶ国語を扱っていても、通訳の仕事と国際的なビジネスマンの仕事はぜんぜん違う。通訳に近い逐語訳を行なうプログラマーの仕事は今はほとんどない。

コンピュータの値段が格段に安くなったことによって、COBOLプログラマーの仕事が無くなった。COBOLプログラマーにとっては、それは働く権利を奪われたと言ってもいいような暴挙だったんだけど、彼らはそれを受け入れて、転職した。転職した先でも、別の言語を端末に打ち込む仕事をしているから、世間からは転職したことや職種が消滅したことは認識されてなかったけど、実態としては、大半のCOBOLプログラマーは強制的に転職させられたのだ。

これは、ニセモノの良心 : 「シフトチェンジのある権力論」について考えるを読んでいて考えたことだ。多少論点をずらす所もあるかもしれないが、以上を前提に孝好さんの疑問に答えてみる。

まず、「権利侵害」ということについて。

私が倫理的に可とするのは、作る側も見る側も「作品」という意識が強い時のみだ。作る側が「作品」「表現」として制作していて、見る側がリスペクトを持って見ている場合。その場合は、「作品性」と「商品性」の相克は、「作品性」を優先して解決すべきである。つまり、その作品の「商品性」にぶらさがっている人たちは、作る側見る側の素直な気持ちがそのままお金となって回るような工夫をすべきだと思う。

たとえば、しあわせのくつ - 理想のビジネスモデルは焼きそば屋に書かれているmF247の「やきそば屋」的ビジネスモデルのように作品性を主として商品性を従とする方法だ。

作る側が「商品」として制作しているものを、作る側の意図に背いてアップロードするのは、「権利侵害」であって望ましくないと私は考える。「商品」は市場で流通させるべきで、市場は一定のルールがなければ運用できない。だから、市場の前提となるルールを破壊するような形で、「作品」をアップロードしたりタダで見たりするのは良くない。

ただし、そうであれば、作る側は市場淘汰による技術革新に直面すべきである。表現、作品、文化、報道等を扱う者として、市場の中で特別扱いされていて、それを利用するような形で技術革新を遅らせていて、「これは商品です」と言うのは筋が通らないと思う。

そして、もうひとつの主題は「合意」ということだと思う。

孝好さんは、「『シフトチェンジ』を成立させ、それを正当化するのはどのような『合意』であるのか」ということを問題とされているように思える。私は、「合意」はあり得ないということを前提として、「『合意』が成立しない時に、『革命』という副作用の多い断絶を避ける為に可能なことはないのか」ということを考えている。

つまり、現在の技術、ネットの存在を前提にして、表現の「作品性」と「商品性」を調和させるということは、作品制作のコスト削減を組込むことで、必然的に、現在、表現の「商品性」に関わっている人たちにとって、既得権を削減する方向に向かう。それを納得することは難しいと思う。

フリーダウンロードを前提としても、YouTubemF247のような方法で、いくらかのお金を回すことは可能である。ただし、そこで回るお金は、現在、テレビや映画やビデオで回っているお金よりはるかに少ない金額になる。大半のケースではクリエイター自身が食っていくのにせいいっぱいだろう。そこで回る作品の「商品性」にぶらさがって産業を成立させることはできないだろう。

問題は、そのようなコスト削減が、映像表現の作品性を損うことになるかそうでないかということだ。この点について「合意」は難しい。

技術の進歩によってコストが低下する時に、そのことを価値を、従来の重厚な技術に携わっていたプロの人が認識するのは難しい。私自身、パソコンが業務に使えるわけがないと思っていたし、オープンソースでまともなOSができるわけがないと思っていたし、Rubyのようなスクリプティング言語で商用のシステムが組めるわけがないと思っていた。常に、新しい技術は「ちゃちな」ものに見えるのだ。

素人が「ちゃちな」技術を持ち上げて、「本物の」技術が正当に評価されないことは、社会全体にとって損失だと、私を含め多くの大型コンピュータの専門家はみんな考えていた。部分的にはそれは正しかったと思う。COBOLプログラマーという職種が急激に消滅したことで、2000年問題や、2007年問題が発生し、社会はこれらの混乱によって余分なコストを負担したし、これから負担すると思う。

しかし、もちろん、そういう革新がなければパソコンもインターネットも今のようには使われていなかったわけで、全体としては、はるかにプラスである。でも、それは実際に起こるまでは認識できない。

具体的にコンピュータ業界が直面してきたコスト削減のキーワードを羅列すれば、1990年頃から「ダウンサイジング」、95年頃から「Windows」、2000年頃から「オープンソース」、だ。どれも金に直接関わる言葉ではないけど乱暴に言えばどのキーワードも「これまでと同じものをヒト桁少ない金額で作れ」と客が言う為の口実になるものだ。もちろん、業界こぞって悪あがきはしたけど、結局、外部からの参入には勝てなくて、細かいレベルでたくさんの職種を削減して仕事のやり方を根本的に変え組織を組み替えて、あり得ないくらいのコスト削減をしてきたのだ。

これを今から振り返って見れば「そんなこともあったなあ、あの時は大変だったなあ」というただの苦労話だけど、もし、1990年の時点の私が、「足し算の未来」として現在のコンピュータ産業全体のあり方を提示されたら、とてもそんな将来に「合意」はできなかっただろう。そんな方法はユーザの為にもよくないし、自分たちの商売の成り立たないと言って、断固拒否しただろう。

そして、今も「Web2.0」「SaaS(Software as a Service)」という言葉で同じような問題に直面している。

もちろん、今でも大型汎用コンピュータは存在している。銀行のオンラインシステムのようにそれでなければ動かない業務はある。それと同じように、ハリウッド映画のように大きな金額をかけた映像表現は残るだろう。だが、今、普通に「コンピュータ」と言えば、大半の人はまずパソコンを連想する。同様に、映像制作は、監督が自分でカメラを回し自分で編集し自分でアップロードするものが大半になるだろう。YouTubeかその後継者が、そのような映像制作のメインストリームを経済的に支えることになる。

私はそう思っていて、これにほぼ同意してくれる人が多いことも信じているが、同時に、現在の業界の人は大半が同意できないだろうと考えている。もちろん、法律違反は無い方がいいが、業界関係者を含む「合意」を待っていたら、違法行為はどんどん蔓延し、映像作品に対して「商品」として関わる人の声が大きくなって、「作品」として映像制作をすることは、従来の規模の金額をかける人も、現在の技術を駆使して少ないコストで行なう人も、両方とも難しい立場に追いこまれるだろう。

もし、それを強権によっておさえこめば、業界全体が痩せてしまうだろう。

そういう前提で、最大多数の最大幸福の為には「シフトチェンジ」が必要なのだと思っている。

もうちょっと具体的に言えば、クリエイターが自分の作っているものが「商品」なのか「作品(表現)」であるのかを明示できるようにする。その前提として、フリーダウンロードを前提としてユーザとクリエイターの間で少ない金額でいいから確実にお金を回す仕組みが確立されるべきである。そういう仕組みに合わせた法整備をして、そこから違法行為を完全に取締ればいいと思う。

つまり、「作品」を作る人は、多くの人に見てもらえる機会を提供して、最低限のコストを回収できるように。「商品」を作る人は、ロングテール指向とヘッド指向を自己責任で選択して、それに対するユーザの支持を直接売り上げとして回収できるようにということだ。「合意」が不可能だという前提で考えると、YouTubeがやっていることは、少なくともここまでは、摩擦を最も少なくして理想の状態への道を開いていると思う。