21世紀の労働倫理を「ワンダと巨像」開発チームの中に見る
3Dゲームファンのための「ワンダと巨像」グラフィックス講座という記事が実に面白い。
これはもちろん、ゲームや3Dグラフィックスの技術開設記事として読んで面白い内容なんだけど、それより「雇用」の問題、もっと言えば、教育とかニートのことを考える上で、関係者一同がまっさきに参照すべきものではないかと思う。(もちろん前提としてこのゲームをクリアしないといけないわけだけど)。
つまり、「雇用」は経済的な価値を生まなければ長続きしないわけで、これから「価値を生む仕事」には普遍的に、ここに書かれていることが含まれているのではないかと思う。それは次のようなことだ。
このゲームでは、3Dグラフィックスの中でもかなり高度な技術が使われている。各所で雰囲気を盛り上げる特殊効果の為には、非常に先進的な理論やアルゴリズムが必要であることは言うまでもないのだが、アルゴリズムだけでは、ゲームにならない。そこに手作業で、膨大な労力を必要とする微調整が入っている。
たとえば、巨像にしがみついたワンダがブルンブルンと振り回される所には、(PS3で主流となるであろう)「物理シミュレーション」という技術が使われているのだが、それだけでできているわけではない。
ただ、これだけだと無機質になってしまうので、このシミュレーション結果に、デザイナ達が付けた人間的な、必死でしがみ続けようとするアクションモーションを足しています。これは我々のチームで『加算モーション』と呼んできたシステムです(SCE第一制作部、田中政伸氏)
この味付けをデザイナがやるという所がキモだと思う。つまり、この作業は「あまりにも巨大な敵に対して非力な人間がどう立ち向かうか」というゲーム全体のテーマを理解した上で、それを動きとして表現できる感性が必要なのだ。そして、それはおそらく微妙な感性と同時に、とてつもない根気が必要な作業だと思う。
「物理シミュレーション」を基盤とするということは、巨像とワンダの位置関係はゲームの流れで無限に変化する可能性がある。「物理シミュレーション」はアルゴリズムよる機械的な計算だから、どういう向きにもひとつのプログラムで対応できるが、「加算モーション」は、機械的な計算ではないので、あらゆる体勢において不自然にならないように調整するには、もの凄い数のテストが必要なはずだ。
そして、上を向いた時に自然にすると下を向いた時に不自然になるというような、細かい問題がたくさん生じるものだと思う。それを解決する為に、シミュレーションのアルゴリズムを調整すれば、今度は別の加算モーションデータと合わなくなる。しかし、ここで雰囲気を損なうことはこのゲームの臨場感を致命的に損なうので、妥協はできない。
これをチームとして複数の人間が協同で行なうということは、実に大変なことではないかと私は想像する。特に、プログラマーとデザイナーは、同じゲームを作っていても、感覚やプライドが全く違うので、相手の感性に配慮するというのはとても難しいことだろう。異質な感性への思いやりを持たなければ、この協同作業は成り立たない。
そこにおいて要求される、「思いやり」とか「協調性」は、従来の規格大量生産の現場で必要とされるそれとは全く異質なものになるだろう。
また、この場面を、「物理シミュレーション」+「加算モーション」で行なうというようなアーキテクチャの決定は、そのどちらとも異質の意思決定である。「物理シミュレーション」だけでやった方がいい場面もあれば、「加算モーション」のような手作業の調整でやった方がいい場面もある。
この上位の意思決定の後で、プログラマーとデザイナーは、膨大な作業時間をかけるわけだが、場合によっては、その上位の意思決定が覆ってしまい、「ここはシミュレーションではだめだ」という話が後で出て来るかもしれない。その場合、特定のアーキテクチャの元で行なわれた作業は全く無駄になるかもしれない。
だから、プログラミングもモデリングも根気や根性が必要な作業ではあるけど、その根気や根性は「アーキテクチャの理解」を背景とする。アーキテクチャに添って根気と根性を発揮しないと、単なる無駄働きになる。時には、アーキテクチャの変更によって、自分の作業が無駄になることを受け入れることが必要になるかもしれない。そういうリスクを理解して、その可能性を受け入れた上で、妥協を許さない細かい作業に力を注ぐことが要求されるのだ。
さらに、多種多様な能力と貢献をまとめる、リーダーは、それらをひとつの世界観にまとめあげなくてはならない。その「世界観」は、振り回されるワンダの動きの微妙な揺れで簡単に壊されてしまうものだ。その「世界観」は、ワンダ以前に世の中に存在しないものであり、これまで存在したことが無いから価値があるものだ。メンバーに「正解」を提示するには、未来から感性したゲームDISKを持ってくる以外しかない。
その「正解」のイメージを、具体的なムービー無しに、リーダは1年以上の間、自分の頭の中に保持し続けて、そこに拘り続けなくてはならない。拘るために、時にはメンバーの作業を一から引っくり返した上で、士気を保ちビジョンを明確にしないといけない。
このように、こういう仕事の為の組織の一員には、これまでと全く違う精神が必要とされる。そして、これは特殊なケースではないと思う。21世紀において、経済的な価値のあるものは、技術と感性の融合を必要とする。どちらか一方だけで通じたのは、WEB2.0以前の話で、どちらか一方では、世界で一番の人や世界で一番の会社に淘汰されてしまう。ネットはすでにその障壁を取り去ってしまったのだ。
だから、これからこの世界に出て行く若い人を教育しようとしたら、この「ワンダと巨像」の開発チームをイメージして、この組織の中で、どのような位置でポジションを確保するかを想定しなくてはならない。基礎教育も専門教育も倫理教育もその枠組みの中で考えるべきだと思う。
特に倫理教育が問題である。「協調性」や「勤勉さ」や「リーダーシップ」は、これからも仕事をきちんとこなす為には、必要とされることではあるけど、その中身は随分違うものになるはずだ。「ワンダと巨像」の中で要求されるそういう精神は、特例であるとしたら、レベルが高いというだけで、方向性としては、あらゆる仕事がこのような精神を必要とする方向に向かうだろう。
象徴的に、二宮金次郎の代わりに、「巨像」を各校に一体づつ配置するくらいのことをして、意識改革を促すことが必要だと私は考える。