Ethics on the edge of chaos -- 「カオスの縁」の倫理学

専門家が、自分の見た不確実性を正直に白状することを迫られている。

私が紹介した、不確実性・価値・公共性をめぐるリスクコミュニケーションの諸問題もそうだし、それに関して貴重な情報を提供していただいたswan_slabさんが遺伝子組み換えを礼賛する男という記事で取りあげている、遺伝子組み換え生物と生物多様性の問題もそうだと思う。

ライブドアニッポン放送買収は、資本主義の市場の論理と、放送の持つ公共性や日本人の組織に対する感覚が葛藤を起こしていて、人権擁護法案の問題も法律論としての確実な論議の延長で、政治的、社会的問題が解決できるのかが問われている。

これらはどれも、「フレーミングの政治性」と「(カオス的)不確実性」がからんだ問題である。

フレーミングの政治性とは、平川氏の論文で問題とされているもので、専門家はある枠組みのもとで確実な因果関連を主張するが、その枠組みの正当性について考えない、そもそも特定の枠組みに立脚していることに自覚がないことだ。ある枠組みの中では客観的で絶対的な推論が可能だが、その結果得た結論が絶対的であると主張するのは、その枠組みを基準として選択することを、他者に押しつけることになる。

「(カオス的)不確実性」というのは、単にサイコロのどの目が出るかわからないという不確実性ではなくて、サイコロに何の数字が書いてあるか、そもそもサイコロがどういう形をしているかがわからないような不確実性だ。

例えば、遺伝子組み替えによって、ある個体の内部で何が起こるのかは、従来の生物学で予想できることである。その中には、「この遺伝子でこの病気にかかる確率が何パーセント」というような多くのサイコロがあるけど、そのサイコロに何が書いてあるかは、どんどん解明されている。しかし、それが生態系の中で繁殖した時に、何が起こりどのような影響を与えるのかは、サイコロの目からして読みきれない問題である。両者は違う性質の不確実性であって、ここでは仮に後者を「(カオス的)不確実性」と呼ぶことにする。

そもそも分子生物学は、「生命を分子の相互作用とみなす」という枠組みであって、同じタンパク質とアミノ酸のかたまりが、かくも多様な美しい地球を作っているということは気にしない。それを排除して、分子しか見ないことにしたから、これだけ発展したわけである。

ライブドアの問題も人権擁護法案の問題も、ある選択が複雑な社会の相互作用でどういう結果を生むのか、読みきれない問題である。ただ、それは「市場の中」でとか「行政と司法の関係」として特定の枠組みの中で理解すれば、解明可能な要素が多くある。

専門家がそれを解説することは望ましいことであるが、多くの場合、それは問題の解決につながらず、むしろ対立をより深刻にしてしまうことになる。

それは、「(カオス的)不確実性」という概念が一般に流通し、共有されてないことが第一の原因だと思う。

医者が「この手術の成功する可能性は80%です」という言い方をするのを許されるのは、「80%」という言葉、つまり「確率」という概念が一般常識として共有化されているからだ。だから、「うまく行くのか行かないのか専門家だったらはっきり断言しろ」等と言われることがない。安心して「80%」と言える。

医者が専門知識によって知り得た知識は「この手術の成功する可能性は80%」ということであって、それ以上でもそれ以下でもない。それを一般人にそのまま表明することが許されている。それも一種の不確実性であるが、そういう確率を含む言明をしても、専門家としての信頼性がゆらぐことはない。

しかし、「(カオス的)不確実性」に直面した専門家がどのようにふるまえばいいのかという倫理的な基準は、確率的事象に対するそれと比較して、全く確立していない。もし、正直に見たままを言えば、「この人は専門家と言っても実は何もわかってない」「いいかげんなことを言っている」と思われてしまうので、見た通りに言うことができないのだ。あるいは、専門家が専門知識を生かそうとすれば(生かすことで公共に貢献しようとすれば)するほど、そのような不確実性を避けた問題設定をせざるを得ず、それが「フレーミングの政治性」という問題につながっていくわけである。

もちろん、「それは典型的なカオスの縁です」等とテレビで言えば、「何言っているのかわからん」と抗議が殺到してしまう。

これは単純な知識啓蒙の問題でもあるけど、一方で、制御され得ないものを否認したがる傾向という宗教的な問題でもある。もうちょっと人生に覚悟があれば、そういう専門家も受け入れやすくなるのかもしれない。