身の程の不確定性と社会の説得力

考えてみれば、「お前が出世できないのはお前の生まれた身分が低いせいだ」と言われるのと、「お前が出世できないのはお前に実力が無いせいだ」と言われるのでは、後者の方が救いが無い。「身分の違いだから仕方が無い」と言う言い訳は、自我を守るための防衛機制としても良くできていたのだろう。

身分制度は民衆の不満を多く生じさせるシステムだが、その不満を低減する仕組もそれなりに用意されていた、と言える。

「社会の説得力」という観点では、身分制度にも一定の合理性があるという話。

もう少し細かく言うと、上に立って社会を率いる立場の人たちの中に分業があるということではないだろうか。

つまり、高い身分の人というのは、その下に参謀とか番頭といった、実際の判断を行うブレーンをかかえている。今の官庁で言えば、課長補佐くらいの人が、実質的に物事を決定したり判断したりしている。でも下から見れば、そういう実質的なリーダーの姿は見えなくて、身分の高い人しか見えないようになっていて、下を納得させるのはそういう人の役割になっている。こちらの仕事には代役がいなくて本人が直接行なわなくてはいけない。

帝王学というのは、戦略とか情報処理ではなくて、上に立ってどれだけの説得力を発揮できるのかという所作の問題で、だから、バイオリンとかピアノと同じように、小さい頃から仕込まないとどんなに才能があっても身につかないものなのかも。

封建社会の対極に位置するのがアメリカンドリームなのだが、身分制度アメリカンドリーム制度の違いを端的に表現するとすれば、「努力する前に諦めさせる」vs「努力し過ぎて取り返しがつかなくなるまで諦めさせない」ということになるかと思う。両者の中庸がベストではないかという話になるが、下手をすると両方の欠点を併せ持ったものができあがってしまう。

ちょうどこれに関連しそうな、社会心理学の実験の話があって

報酬体系の格差が大きくなると能力の高い人(迷路を解くのが上手な人)ほど頑張るが、苦手な人はやる気をなくす(特に、出来高払いでの成績が知らされているときはそれが顕著になる)。そのため迷路がとけた総数は、報酬体系が単純な出来高のときと一番不平等な時で少なく、中ぐらいの不平等な報酬の時が一番多かったということだ。

能力と報酬は、無関係でもいけないが単純に連動しているのもよくない。微妙にズレを持ちながらつながっていると、能力の高い人も低い人も両方がそれなりに努力するという話だ。

しかし、日本の「失なわれた10年」は、社会全体の説得力を破壊して能力主義を導入しようとしたが、肝心の能力の高い人に対するインセンティブを高めることにも失敗している。折衷的な中途半端な出来高性がうまくいくとも限らない。

「身の程をわきまえる」という言葉があるが、自分の「身の程」が誰にでも自明であるという前提に問題があるのではないだろうか。

「身の程」の不確定性が増していることで、社会の説得力とインセティブが両方失われているのだ。そして、日本は、「身分」というインフォーマルなシステムを温存してきた分だけ、「身の程」の自明性に深く依存した社会システムだったから、ダメージが大きいのだ。

日本では、身分が高く能力があっても、身分が高くて能力がなくても、身分が低くて能力があっても、身分が低くて能力がなくても、それなりに生きる道が用意されていた。本人も満足して、社会にとっても最大限のパフォーマンスを発揮できるようになっている。

ただ、自分の「身の程」がわからないとほぼ確実に不利になるようにできている。だから、誰も「身の程」を知ることに必死になるのだ。「身の程」を知らないで幸福になれる可能性はほとんどない。

「自分探し」というのは、実は自分の「身の程」を求めていて、それがわかるまでは社会に出たくないということだし、嫌儲というのは、自分と相手の「身の程」の違いを確認したいという欲求の暴走なのではないか。

しかし、不安定な「カオスの縁」を基盤とした社会になっているのに、社会にとっての自分の能力を正しく測定できるものだろうか。

だから、「身の程」を知らなくても安心して暮らせる社会が活力ある社会になるのではないかと思う。

自分の「身の程」を間違えたって恥ではないし、誰にも迷惑をかけることはない。むしろ、それが当然のことで、今はどんな人にも自分の「身の程」がわからない、そういう仕組みの社会になったのだよ。そういうアナウンスをして、その通りの社会にしていけば、インセンティブの具合は今のままでも、ずっと住みやすくなるし、経済も発展すると思う。