今ここにある10年分の時間

otsuneさんの日記から


人文系の人たちにまず言いたい。はてなのスタッフには日本語を書くよりもPerlのコードを書いてもらうほうが全体の幸せ度数は高くなると思う。

なるほど。

有限のクリティカルなリソースに常に着目していることが、よいハッカーの必要条件なのではないか。

そう考えるとRingo's Weblogの「ソフトウェアを書くことは、政治をすることである」という「対人能力」の意味がわかってくる。

つまり、チープ革命の中で、マシン、回線、ソフトが次々とコモディティ化していくと、最終的に貴重な資源として残るのは、ユーザの時間と開発者の時間であって、そのクリティカルなリソースを有効活用するアーキテクチャが正解ということになる。

メモリが貴重なリソースだった時は、スーパーハッカーと言えば、少ないバイト数に多くの機能を詰め込んだプログラムを書ける人だったわけだが、そういう人と「対人能力」の優れた人を同じ「ハッカー」という言葉で呼ぶとしたら、その本質的な意味は、「クリティカルなリソースに敏感で、クリティカルなリソースに優しいアーキテクチャを設計できる人」ということになるだろう。

10年後には、CPUとメモリとDISKと回線とコモディティソフトウエアは、明らかにあり余っている。その時点では、おそらく「時間」が有限であって貴重な資源であることを、誰もが理解している。でも、その時にアーキテクチャを設計し直すとしたら、その為に、何が最も必要だろうか?

もちろん、時間である。議論し試行錯誤する為の時間である。その時間は、どこにあるのか?10年後にはない。10年後には、時間が最も貴重なリソースで、どこにも余裕がない。

時間があるのは、現在だ。今すぐにはじめれば、その時までに、10年×人数分の時間が割当てられる。今ここにある10年分の時間を、今の時点でクリティカルなリソースとして認識できている人が、真のハッカーなのだろう。

日日ノ日キ - ネットの安全神話はとっくに終わってる

remixableにされて泣き言を言う情けないオールドタイプがいる一方で、50文字制限の殺伐系技術を軽やかに遊んでしまう人もいるわけで、時間は有限でも感性は無限で増殖可能で常に調達可能。

さあ、ハッカー諸君。10年かかって、この人をどうremixableにするか考えなさい!

歴史を引き受けて自分が変わるということ

くまりんが見てた! ? 田口汎氏の靖国神社批判を廻ってのコメント欄でくまりんさんの注目すべき発言を見つけました。


石原(莞爾)は軍人と言うよりは思想家でして満州事変を起こした人ですけれども、思想の基礎になっているのは日蓮主義なんです。僕を取り囲んだ先生方は、石原は特別な存在で日蓮主義からの逸脱であって異端であると。あれは日蓮思想ではないんだと言うものだから、いや違うと。僕は石原が満州事変を起こし、アメリカとの世界最終戦争に勝利するためには東亜が一つになって生産力を高めるのだという考え方、いわゆる大東亜共栄圏構想ですね。これにいたる思想構造は、そりゃ日蓮上人そのひとの思想じゃ無いけれど、当時の日蓮宗を含む明治新仏教の思想構造から生まれたんだと、石原だけが異端じゃないんだと。

石原莞爾の思想も日蓮の思想も私は全然知りませんが、これは、重要な問題提起だと思うし、私は、このくまりんさんの姿勢に共感します。

つまり、忌しき過去を、自分に関係の無い「異端」とか「逸脱」として切り離すのは、楽だし、いろいろ都合がいいと思います。

この場合だと、「石原莞爾は読解力ゼロの単なるバカ。奴が日蓮と言うのは全部誤読」として、石原莞爾日蓮を切離すか、「石原莞爾が狂ったのは日蓮のせいで、日蓮は危険思想」として、(日蓮+石原)と自分を切離すか、いずれにせよ、過去を切離して、自分をその外に置いて、そこから過去を批判するということです。

石原莞爾という思想家とまっこうから対峙してそれをするならまだ許せますが、そうでない限り、「僕は関係ないもんね」と言うのはインチキ。

くまりんさんは、歴史とのつながりを意識されており、その歴史の一部として、石原莞爾という思想家が日蓮に傾倒したという事実と、くまりんさんご自身が今現在仏教の実践をなさることとのつながりを引き受けようとされている、私はそう思います。

これは、仏教や思想史の研究をするから起こる問題ではなくて、そういうものには全く興味がなくても、全ての人が考えなくてはいけない問題ではないでしょうか。

自分の中に歴史があるということに鈍感な人が多すぎると思います。

「僕は21世紀のITの人だから歴史が無い」とか言って、それが事実ならいいのですが、実際には、言葉と社会のルールの習う段階で、たっぷりと善悪詰め合わせの歴史の空気を吸い込んでいるわけです。

自覚無しにOSを使うことの危険性で書いたように、Windowsを使っているという自覚無しにWindowsを使うことは危険です。WindowsというOSが再インストールできない宿命的なものであったら、それを自分の内なる問題として批判しなくてはいけない。

そして、くまりんさんは、さらにその為のひとつの方法論をも提示されています。


人は場所に生まれ場所に育ち場所に帰る。分かり易いし気持ちも落ち着く。場所を故郷や日本に置き換えるとより分かり易いかも知れません。愛国主義、あるいは日本主義とも言えるものでしょうか。しかし本当のところ人は生まれた場所に帰るわけではありません。時を経て自らを変えてまた場所に向かって歩むのです。故郷に帰る訳ではない。時間を経過して変化した自分が故郷へ向かって新たな旅をする。それを僕は時間的日本主義と呼びたい。

宿命だから日本の歴史を全肯定するのも、また別の安易な道です。そうではなくて、「時間を経過して変化した自分が故郷へ向かって新たな旅をする」こと、つまり、歴史を引き受けた自分が変化していくことが、本当に歴史を繰り返さない為に必要なことだと思います。

小泉首相=中華思想ハカー論

くまりんが見てた! ? 靖国参拝問題〜視点を変えて見てみようのコメント欄から


小泉首相は少なくとも中国が翻弄できないどころか、思うようにすらいかない首相であり、逆に言えば中国と同じように自らを正当化し存続させるために混乱と矛盾を何食わぬ顔で呑了しその場に応じたアピールが出来る中華思想を身につけた首相であると言えるのではないかと思います。

時間の経過という概念無しに、自国の歴史と現在を直接つなげると、くまりんさんが「中華思想」として批判しているものになります。つまり、現在の自分を正当化する為に過去の全面肯定が必要となり、その為には、あらゆる思想をつぎはぎして都合良く操作してもかまわない、という話で、そして皮肉なことに、小泉首相と現在の中国政府が共に、こういう考え方を持っているという話です。

これを思想として評価するならば、簡単に言えば「好き勝手デタラメなつまみ食いでとても思想として評価するに値しないレベル」ということになりますが、その批判は、小泉首相と同時に中国政府にもあてはまるわけです。片方だけを救うことはできません。

そして、これを政治という現世の営みとして評価するとどうなるか。小泉首相の目的は「中国のアジアでの地位を貶めること」であるとくまりんさんは見ています。私も、中国の独裁国家、非近代的覇権国家としての側面を世界に向けて見せつけることで、中国が民主国家となるような圧力をかけることは、日本の国益になると思います。

それは、国益と言っても、日本の繁栄の為に他国を犠牲にすることではなくて、中国の民主化によって東アジアに長期的な安定をもたらすことでWin-Winの関係を作ることですから、立派な方針ではないかと思います。

そして、その方針を貫徹する最も有効な手段が、「中華思想」だというのも、「なるほど」と思いました。「中華思想」を逆用することで、中国のプライドを傷つけ地位を貶めるわけですが、それは、中国の歴史や文化全体を否定することではありません。実際の儒教や仏教は、そんな浅薄なものではなくて、もっと厚みがあり、正しく理解すればその分だけ近代法の理念にも十分接続可能なものです。

中華思想逆用作戦」はピンポイントで中共政府の恣意的な文化政策や抑圧的な側面のみを爆撃するわけです。

小泉首相の引用する論語は、全然儒教じゃないわけですが、「孔子はそんなことは言ってない」と攻撃すると、「じゃあ孔子は何と言ったのですか」と反撃され、そこで小泉の恣意的な解釈と本当の儒教の違いを説明すると、その説明が全部、今の中国政府の言動にあてはまってしまうという仕組みです。

ですから、これで今の中国政府をどれだけコケにしても、将来、真に民主的な政府ができた時の日中友好には、全く悪影響がない。

これは、ちょっと単純化し過ぎている(曲解している?)かもしれませんが、私はくまりんさんの発言をこのように解釈して、実に納得しました。

「文化的民主化圧力」での強硬姿勢であれば、先方が民主化できなければ仲良くできませんが無理に仲良くする必要ないし、先方がそれによって民主化されれば、そこで真の友好関係を結べばいい。そういう意味で、文化的歴史的におかしい所を世界に晒し上げしていくのは、正しい方針だと思います。

あるいは、民主化という西欧の近代的理念が絶対でないともし中国が主張するならば、それこそ、自国の歴史的思想的蓄積と正しく接続した別の理念を言語化して提唱すべきであり、それがあって初めて、日本がアメリカと距離を取ってその理念の元で中国に接近するという方向も検討できます。私はどちらかと言うと、そちらの道を歓迎しますが、くまりんさんの一連の分析を拝見した限りでは、それは難しいようです。

共有可能な範囲を共有すること

もうひとつ、くまりんさんの所から、事象研究の方法論的考察について。

これは、はっきり言って難解で私には全部は理解できませんが、難解であっても自分の方法論を言語化するというのは大事なことだと思います。

私は、西欧近代の最も重要なポイントは、「方法論の明確化と共有」ということではないかと考えています。

例えば、裁判であれば、事前に法律というカードを場に晒しておくこと、裁判をどういう手続きで行なうのか明確にしておくこと、それを対立する相共と共有することです。

意見は一致しなくても、手続き、方法論は摺り合わせをして、それだけでも共有しておくこと。社会の運営、経済、学問、全てにおいて、その理念が西欧近代から継承すべき、最も重要な遺産ではないかと思います。

もちろん、歴史の研究ではそれは困難なことですが、結論の共有よりは前提の共有の方がまだ可能でしょう。

Webサイトの削除をめぐる「表現の自由」〜日韓で解釈に差によると、韓国サイバー監視団のゴング氏という方が、


反民族的、反国家的な情報を掲載していると判断された場合は削除される


ねつ造されたり、誤った情報を配信するサイトを削除したとしても、表現の自由には抵触しないと考える

と発言されたそうです(ちなみにこれを質問したのは、悪マニのBeyondさんだそうです)。何が「誤った情報」なのか判断する手続きが言語化されてなければ、そのような国と一定以上親密にすることには不安を感じます。

もちろん、お互いに歩みよることは必要ですが、それは、方法論の共有→対立点の明確化→結論の共有範囲の拡大、というプロセスで進めるべきだと私は思います。これは、学問的な歴史研究、国家同士の国交、民間レベルの交流、それぞれで、多重並行的に進めるべきでしょうが、いきなり結論を全面的に共有するのは無理であり、必ず反動が来ると思います。

さらにこれを一般化すれば、「共有可能な範囲を共有する」ことが、価値観が多様化する時代には、最も重要であるし、その為に、自分の方法論を言語化して提示することは、非常に重要だと私は考えます。