共有可能な範囲を共有すること
もうひとつ、くまりんさんの所から、事象研究の方法論的考察について。
これは、はっきり言って難解で私には全部は理解できませんが、難解であっても自分の方法論を言語化するというのは大事なことだと思います。
私は、西欧近代の最も重要なポイントは、「方法論の明確化と共有」ということではないかと考えています。
例えば、裁判であれば、事前に法律というカードを場に晒しておくこと、裁判をどういう手続きで行なうのか明確にしておくこと、それを対立する相共と共有することです。
意見は一致しなくても、手続き、方法論は摺り合わせをして、それだけでも共有しておくこと。社会の運営、経済、学問、全てにおいて、その理念が西欧近代から継承すべき、最も重要な遺産ではないかと思います。
もちろん、歴史の研究ではそれは困難なことですが、結論の共有よりは前提の共有の方がまだ可能でしょう。
Webサイトの削除をめぐる「表現の自由」〜日韓で解釈に差によると、韓国サイバー監視団のゴング氏という方が、
反民族的、反国家的な情報を掲載していると判断された場合は削除される
ねつ造されたり、誤った情報を配信するサイトを削除したとしても、表現の自由には抵触しないと考える
と発言されたそうです(ちなみにこれを質問したのは、悪マニのBeyondさんだそうです)。何が「誤った情報」なのか判断する手続きが言語化されてなければ、そのような国と一定以上親密にすることには不安を感じます。
もちろん、お互いに歩みよることは必要ですが、それは、方法論の共有→対立点の明確化→結論の共有範囲の拡大、というプロセスで進めるべきだと私は思います。これは、学問的な歴史研究、国家同士の国交、民間レベルの交流、それぞれで、多重並行的に進めるべきでしょうが、いきなり結論を全面的に共有するのは無理であり、必ず反動が来ると思います。
さらにこれを一般化すれば、「共有可能な範囲を共有する」ことが、価値観が多様化する時代には、最も重要であるし、その為に、自分の方法論を言語化して提示することは、非常に重要だと私は考えます。