武勇伝を忘れる勇気
- 「あっちゃん、渋谷まで山の手線で一本だな」
- 「いやだ!」
- 「じゃあ銀座線」
- 「いやだ!」
- 「じゃあ半蔵門線」
- 「いやだ!」
- 「じゃあ埼京線?」
- 「いやだつってんだろう!」
- 「どうして!」
- 「誰かの敷いたレールの上を走るなんてもうまっぴらなんだよ」
- 「あっちゃんキャッコイイー!」
日本では、公的なルールというのは、誰にでも平等に適用され、誰もが真剣に守るものではなくて、常に適切なポイントより少し前に置かれる線である。
制限速度が40kmだったら、誰もが39km以下で走るわけではなく、それよりちょっと上の45kmとか50kmで走る。40kmピッタリで走ることは、どちらかと言えば顰蹙を買う行為で、悪くすれば煽り運転とかのひどい目にあう。
ルールというものはそういうもんだということを、学校の中にいる間に体で覚える。校則や先生の言うことをきちんと守る奴は、どちらかと言えば、ガリ勉キャラや風紀委員キャラとして嫌われる危険性が高い。人気があるのは、それをちょっとハミ出す「武勇伝」を持った人間だ。
この公的な制度やルールをちょっとハミ出す「武勇伝」的な感覚は、社会に出てからも必要とされる。教室で覚えるべきことは、勉強だけではなく、そういう「公的なルールを補助線として、どのくらいそこからはみ出た所に、適切なラインがあるか」感じ取る能力だ。
バカッター騒動を起こしてしまう人は、鈍感で非常識な人なのではなく、むしろ、そういう「武勇伝」的感覚が敏感で、友達の多い、ある意味では社会性のある人なのだと思う。少なくとも誰もが動画を共有して一緒に楽しむ友人を持っているからこそ、それを撮影、投稿してしまったのだろう。
もちろん、交通法規でも制限速度とは違って、たとえば、一方通行なんかを破ればすぐにトラブルを起こすし、一発アウトで取り締まられる可能性も高い。言われている通りに厳守すべきルールもあり、そうではないルールもある。本来の社会性とは、その違いを見抜くことも含まれていて、そこは欠けていると言わざるを得ない。
しかし、日本の伝統では、「やんちゃ」が行き過ぎた場合、一発アウトとなるケースは少なく、多くは偉い人の裁量によって処分が決められる。
スクリーンショット違法化という流れも、そういう伝統に戻したい人の意向が多く反映されていると思う。そういう場面の裁量権が権力の源泉だからだ。誰もがラインの少しだけ外にいて、誰を捕まえるかを裁量で決められる状態が一番都合がいい。
動画や音声が気軽に飛び交うインターネットというものは、人治主義と相性が悪い。
バカッター動画も関係者の本音としては「今回だけは大目に見てやるからもうするなよ」と一つの「武勇伝」として終わらせたい所ではないかと思うが、動画があちこちで共有されてしまったら、そういう裁量を効かせる余地がない。
やっぱりテクノロジーは、強引に世の中を変えてしまうと思うが、「ブランド」というものもその中で再考を迫られると思う。
不適切動画は、その店ではなくブランドを傷つける。みんなどことどこの不適切動画が騒動になっているか知っていると思うが、それがどこの県の何店なのか即答できる人は少ないだろう。みんな不適切動画の強烈な印象にブランド名を被せて記憶する。
今までは、ブランドが大きいほど有利だった。一つのテレビコマーシャルが全国何百件全部の店の宣伝になるからだ。
しかし、不適切動画を撲滅するのは、店の数が多いほど困難になる。どこの世界にも先生の言うことをそのまま真面目に聞かない人間が少数存在する。ブランドを持つ店の大半で適切な指導をするのは可能だが、全部というのは困難だ。先生の言うことの多くはタテマエだと学習した人間の何割かは、店長やスーパーバイザーが厳しく言ったことも同じように受け取る。これは「武勇伝」を作るチャンスだと。
「あっちゃんかっこいい」はどう見ても、あっちゃんを痛い人として笑ってもらうためだが、そういう「あっちゃん」はどこにでもいるのだろう。
むしろ、こういう事故はごく少数はどうやっても起こるもんだとして、その被害範囲を狭くする工夫をした方が現実的だと思う。つまり、ブランドを分断して、たとえば、コンビニ名がその県の中でしかないブランドだったら、その県以外の人は不適切動画を見ても笑って自分の家の近くのコンビニには気にしないで行ける。
ブランドが大きいことが有利な理由は、ほとんどマスメディア上での宣伝のためなので、SNSを使えば、同じくらいのコストや労力で小さいブランドを個別に展開していくこともできるのではないだろうか。
今一番重要な教育は、「忘れる」ことを教えることである。
不適切動画予備軍に、「SNSへの投稿は注意すること」とか「食品を必ず衛生的に扱うこと」とか説教しても意味がない。「武勇伝」という概念の危険性を教えなくてはいけない。物理的な証拠があったら裁量の効かせようがないので、法律通りに処理される。ルールを教えるのではなく、「君が学んできたルールのとらえ方を忘れなさい」と教えなくてはいけない。
とりあえず、教室という空間で長く生きた経験を持つ人は、そこで知らずに学んでいることを総点検した方がいいと思う。そこで学ぶことは無意識に学ぶことも含めて社会で役に立つものが多かった。だから、制限速度の標識から本当に走るべき速度を知るということの、数字では表現できないもっと難しいバージョンを、みんな覚えていて、しかもそれを学習したということを意識してもいない。
そういう裁量ベースのルールがすぐに消える訳ではいが、これから「裁量」が物理的証拠と対立した時どうするかの激しい葛藤があちこちで起こる。意識的でいないと思わぬところでその葛藤に巻き込まれてしまう。だから、何を覚えたかではなくて、自分が何をどこでどのように学習したか点検して、必要に応じて、それを忘れることが重要だと思う。「裁量」や「武勇伝」以外にもそういう忘れるべきものがたくさんあるだろう。