「千田率」によって裁かれる恐怖

(2017/01/03 追記

この記事内の不正の有無に関する見解について私は後日考えを変えました。詳しくは下記の記事を参照ください。

追記終わり)

将棋ソフト問題はいよいよ混迷を深め、渡辺竜王の告発の正当性が疑われる事態となっている。なかでも、不正の疑いの根拠の一つとしてあげ(て後に撤回し)た「一致率」という数値が統計的な根拠の薄いものだという批判が多いようだ。

確かに、千田五段の公開したデータは、対象となる手が恣意的に選択されていて、三浦九段の過去の対局や他の棋士のデータとの比較がなく、分散も考慮してないので、統計的にはナンセンスである。「千田率」と揶揄されてしまうのも仕方ないかもしれない。

しかし、もし三浦対渡辺の竜王戦が行なわれていたら、多くの将棋ファンがこの数値を目にすることになっただろう。技巧はフリーで公開されており、多くの将棋ファンが日常的に使っている。注目の集まるタイトル戦ともなれば、そこで「一致率」が高いことが話題になるだろう。千田五段が行なった手の選別は、アマチュアでも高段者なら容易にできることで、「それに対して説明できますか?」というのが、渡辺竜王が突き付けた問い掛けなのだと思う。

突き付けられたのは、第一には、谷川会長や羽生三冠を始めとする「極秘のトップ会談」に集った棋士たちである。

私は、この出席者は全員、少なくとも、対象となった三浦九段の棋譜に対してなんらかの異変は感じたのだと思う。この異変に対して「一致率」という数値で疑いをかけられた時に、胸をはって「それは偶然だ」「それはナンセンスだ」と言いきれるのか。

そして、同じ問い掛けが三浦九段にも行なわれ、「疑われているなら対局はできない」という発言につながったのではないか。最終的な質問の場で、どのようなやりとりがあったのかは、双方の意見が食い違っていて、詳細は確認できないが、渡辺九段の告発の真の意図は「ファンはあなたの将棋を技巧と比較して観戦していますよ。それで何を言われてもいいのですか?」ということなのだと思う。

渡辺竜王は、将棋を「興業」として見る意識が強いのだと思う。この点では、他の人と違いがあるかもしれない。「三浦の千田率高いw」というファンからの目線に対して説明するのは、言われた棋士本人の責任ではなく、将棋界全体の責任だという意識が他の関係者より濃いのだと思う。

もしここで、「棋士をなめるな!」と怒る人が誰か一人でもいて、「そういうこと言う奴が言たら俺が責任を持って反論する」と説明責任を引き受けてくれるなら、渡辺竜王は安心して、告発を取り下げただろう。それが三浦九段本人であれば一番いいが、そうでなくてもトップ棋士の誰かがそう言えばよかった。

「千田率」は三浦九段のクロの確証とはならないが、将棋界全体へのファンからの不信を致命的に高めるには充分な数値なのである。

これは、三浦九段のクロシロとは関係なく、告発の時点で確定している事実で、渡辺竜王の踏んだ手順は充分なものだと思う。もし、これが疑惑の4局と同様、高いままで維持されれば当然話題になるし、突然低くなれば、そのギャップが話題になる。単に週刊誌のスキャンダルだけであれば、「馬鹿げている」と黙殺しておけばいいが、ここに「千田率」が加わった時にどうするのか。「統計的には無効です」と専門家が言えば騒動はおさまるだろうか。

渡辺が三浦を「千田率」で裁いたのではなく、将棋界が「千田率」で裁かれることを読んだ渡辺が裁かれる側に立って行動したのだ。


ここで私が残念に思うことが、将棋というゲームの独特の面白さが、この誤解が拡大する要因の一つになっていることである。

将棋は、「完全情報非ゼロ和ゲーム」という種別に属していて、これが意味するのは将棋の神様はこの世で一番将棋を楽しめない人であるということだ。将棋の勝敗はルールを決めて盤の前に両者が着席した瞬間に決まっているだが、神様にはその勝敗が見えても人間には見えない。充分なCPUがあればコンピュータにも見えるが、地球上の全てのCPUを足しても見えない。地球上の全てのCPUどころか、地球上の全てのシリコンを掘り出して全部CPUにしても見えない。計算量が多すぎるのだ。

それによって将棋は、単純で決定的なルールでできているのに、先が見えない中で「思考の省略」を競うゲームになる。「思考の省略」の中には対戦相手の思考方法をシミュレートして、それによって思考を省略することも含まれる。それによって、将棋は複雑なゲームになり、盤内盤外からさまざまな要素を抽出して選択することを競うゲームになる。この「思考の省略」の中にはさまざまな個性があらわれてくるし、ゲームの性質も局面ごとに変化していく。

ある時には、単純なパズルの早解き競争になるし、ある時はマラソンのように正確な読みをどちらが長時間続けるかの勝負になるし、ある時は受験のように事前の勉強量の勝負である時は、相手の意図を読みあいハッタリをかけるポーカーのようなゲームになる。しかも、そういう要素が複雑にからみあい、一手指すごとにゲームの種類が変化していく。

そんな複雑なゲームでは、初心者には何もわからないのかと言うと、言わばフラクタルな側面もあって、初心者には初心者なりの楽しみ方があって、中級者にはそれなりの楽しみがある。初心者がプロの対局を見てもちょっと解説があるとわかった気になって楽しめる。

そして、おそらく、上に行けば行くほど、より複雑な地形が見えてくるのだ。棋譜から「思考の省略」という地形を深く読み取る中に顔写真のように個性が浮かびあがってくるのだろう。

だから、トップ棋士が「これは三浦九段本人の手には思えない」と言った時、彼らの中には確信というより、「棋譜の中にひとつの事実を目撃した」という感触があるのだが、それをA級の棋力の無い人に説明するのが難しいのだと思う。

それは単に強い人や突然強くなった人の手とは違うのだと思う。集まった棋士みんな羽生さんの人外の手に何度となくやられた人であり、その羽生さんも今は連盟会長の谷川さんに一瞬で切り殺された経験が何度もある。「これは人間には読めない素晴しすぎる手だから人間に指せるものではない」とは簡単には言えない人たちである。将棋を一番よく知っていて、なおかつ自分が将棋を知らないことを経験からよく知っている人たちだ。

つまり、羽生谷川という人間の限界を、一番近くで自分の人生の最も切実な課題として見てきた人たちであり、そういう人たちが揃って「重い沈黙」に沈んだということの意味は重い。

私から見ると、これは疑惑というより、「目撃者」が7人いたという事件に見える。ただ、丸山九段のように現場にいたけど何も見なかったという人がいて、そもそも、三浦九段も「目撃者」になれるレベルの人なので、どのようにうまくやっても棋譜が残る以上、現場を棋譜の中で「目撃」する人がいることはわかるはずだが、とも思う。

将棋の中には、棋力という解像度によって全く違うものが見えてくるのに、棋力が違う人の言うことも断片的には意味がわかる。だから、疑惑の将棋の棋譜を見て、彼らが何を考えたのか、わかる部分とわからない部分があって、それが複雑にからみあってくるので、一度不信の目で見ると、とめどもなく不信が高まるのだと思う。

それが将棋の面白さと同型なのである。