「集合愚をスルー力」の価値

「集合愚」と「スルー力」というトピックが流行っていたみたいですが、どちらも出遅れてしまったので二つまとめて書いてみようというわけではなくて。

「集合愚」なんてものはスルーしてしまえばいいという話。

もちろん、Web2.0とか集合知について考えたり論じたりする人がこれをスルーしてしまってはよくないけど、それ以外の人にとっては、「集合愚」に左右されるなんて馬鹿らしい。

あるトピックやブログがホットになっていて、同じこと言っている人が集っているのが「集合愚」で、違うこと言う人が集まっているのが「集合知」でしょ。適切にサマリする力があれば、「集合愚」なんてものは、「集合知」の中の一つの意見でしかないわけです。

自分が面白いと思った作品が、ネット上では圧倒的に悪評の時、その面白いと思った感想をネットに書けるか? 逆にネット上では圧倒的に評判がいい時、自分はつまらなかったと書けるか? 時事問題に対して、ある意見が圧倒的に主流の時に、逆の意見を言えるか?

他人がどう思っているかではなく、自分がどう感じ、思ったのか。そして、それを思っているだけではなく、公開の場でいえるかどうか。

人間の心性として集団に流される傾向があることは否定できませんが、何を「圧倒的」と感じるかという感覚は、ツールの活用を含めて調整できる余地があると思います。

多種多様な意見が全体として一つの方向を向いている時にだけ「圧倒的」と感じて、炎上したブログのコメントのように、数はたくさんあっても中身がある意見が少なくて、大半が同じこと言っている場合にはそれを「一件」としてカウントしてしまうような感覚を身につける。

たとえば、大半の炎上騒ぎではまとめサイトができますから、そちらから読む。あるいは「まとめサイト」の良し悪しを素早く判定できるような「まとめサイトリテラシー」を磨く。

「圧倒的な意見に平然と反対意見を言える力」ではなくて、「中身の無い『集合愚』が『圧倒的』な意見に見えなくなる力」が、「集合愚をスルー力」です。

個人の世渡りの問題としては、(Web2.0論の論客として身を立てようと思っている人でない限り)「集合愚をスルー力」がある方が断然有利です。「集合愚をスルー力」のある人の方が、多種多様な観点、情報を集めることができるので、何かを判断したり考えたりする質が高くなります。

問題は、空気が読めないことで、圧倒的な数の人を怒らして、自分が炎上してしまう可能性が高まることですが、炎上が感情的なショック以外の被害につながることは少なくて、「集合愚をスルー力」のある人にとっては問題ではないと思います。もし、具体的な問題になったらその時に対策すればいいことで、集合愚はワンパターンなので対策もワンパターンですむでしょう。集合愚側の知恵の量が実質一人分であれば、集合知の助けを借りることで充分勝てるはずです。

それで、社会全体として、「集合愚をスルー力」のある人が増えたらどうなるでしょうか?

一つの可能性は、巨大なとんでもない「集合愚」が育っているけど、それを止める人がいなくて(というか気がつくことさえなしに)、社会がとんでもない方向に流れていくことになるということ。

でも、「集合愚をスルー力」を持つ人が一定数いれば、それが致命的な問題になる前に気がついて、制止できるような気もします。制止できなければそれは「集合愚」とは言えないのではないかと思います。

「集合愚」対「集合愚をスルー力」の力関係は、もっとよく考えてみるべきかもしれませんが、とりあえず「集合愚をスルー力」の啓蒙や技術開発は必要ではないでしょうか。

「集合愚」はワンパターンだから「集合愚」なので、コメントやレスやエントリの集合に対して何か機械的な判定を行なうことで「集合愚指数」を表示したりとかできそうに思えます。

そういう技術の開発や利用も含めて、ネットの中に見えるものは全てが調整可能です。リアルの世界では、暴走する集合愚は「暴徒」に見えるという形で見え方が固定されていて、その見え方が人間の本能に大きな影響力を及ぼすことは必然です。しかしネットにおいて、それを忠実にシミュレートしなければいけない必然性はありません。「暴徒」ではなくて、たった一人の頭のおかしい人が何か不思議な踊りを踊っているくらいに見えるような仕掛けを自分の端末に仕込んでおくことだってできるわけです。

技術開発を待つまでもなく、ちょっとRSSリーダーの登録を見直して巡回するサイトを調整するとか、多少の手間を惜しまなければ、同様のことができます。

「集合愚」と「集合知」の見極めも含め、「集合愚をスルー力」の重要性がもっと注目されてもいいと思います。