教育の再生は「合意コスト高への合意」から

おでんと少年ジャンプと祝儀袋はどれもコンビニで売っているものだが、「コンビニで売っている」ということ以外に三者の共通点は無い。

基礎教育と専門教育と職業教育は、どれも学校で行なっているものだが、「学校で行なっている教育と名がつくもの」にどのような共通点があるのか見直すべきだと思う。

いじめ問題や履修単位不足問題は氷山の一角であって、学校には他にもたくさんの構造的な問題が隠れていると見なすべきである。その根本は「学校に何を期待するのか」ということへの合意が難しくなっているということである。

おでんと少年ジャンプと祝儀袋に、それぞれ何を期待するかという個別の問題は解くのがやさしい。しかし、この三つの品を一つの場所で売ることによって発生した問題があるとしたら、おでんのユーザと少年ジャンプのユーザと祝儀袋のユーザが、お互いに対立する利害を調整、合意しなくてはならない。

コンビニは「ポスレジによる単品売上管理」という合意の軸を事前に決めている。だから、三者の利害を調整するのは、ほとんど機械的なプロセスであって何も悩むことはない。さらに、その合意の軸に不満がある人は、コンビニに行かなくてもよい。コンビニに参加しない権利が保証されていることは、コンビニ側とユーザ側双方にとってよいことで、コンビニは自分だけの都合で好きなだけポスレジで集計する項目を増やし、分析を精緻化して自由に品揃えを変更できるし、ユーザは結果だけを評価すればよいし、他のユーザの動向などおかまいなしに、自分の利害で自分の決断をする。

学校で行なわれていることは、実に多様である上に、調整の為の合意の軸が決められてないし、その合意の軸を決める手続きについても多様な意見がある。

読み書きそろばんと社会人としての基礎的な知識、つまり基礎教育は、国民になる為の教育である。個人の権利としても国家全体の利益としても、ユニバーサルであるべきだろう。誰もが平等に一定レベルの知識を持てることを第一とすべきだ。

専門教育は、基本的には知識の伝達ゲームであり、正確さと効率性で評価されるべきである。だから、適性や能力で生徒を適切に区分けしていくことが必要である。教師には人格より「知識を教える」という専門技能が要求される。

私は「職業教育」という言葉をちょっと拡張して使いたいのだが、給食とか時間割とか運動会とか部活は、工場労働者になる為の職業教育だと思う。つまり、毎日同じ時間に決まった場所に来て、指定された時間割に添って動き、同じ時間に食事をして、団体として行動する、という一連のことは、工場で働く為には非常に重要なことだ。学校は、製造業主体の大量生産の経済システムの一員を育成することに、相当な重点を置いている。これは、意識されてないが、学校の重要な機能であり学校に期待されていたことだったと思う。

実際に、働く場が工場や工場をモデルとして運営されているオフィスが主体である時代には、このような意味の「職業教育」をされてなければ、働くことが困難であり苦痛であっただろう。毎日12:00に食事をするというのは、もしそれを給食で習慣づけられてなかったら、非常に人間の尊厳を損なうことに感じただろうし、その時間にうまく空腹にならなければ、仕事に大きな支障があっただろう。

「職業教育」の観点からは、学校は生徒達が卒業後に活躍する経済システムに適合した教育を行なうことが求められる。

これら3つの「教育」が同じ場所で同じ方法で行なわれていることに意味があるのだろうか。

履修単位不足問題は、明らかに基礎教育と専門教育のバッティングである。

いじめ問題は、学校の職業教育としての側面が時代錯誤になって空洞化しているという面もあるが、職業教育からドロップアウトすると、基礎教育や専門教育へのアクセスが困難になるということが問題の本質だろう。

おそらく、他にも学校に求められる機能が多様化して矛盾していることから起こっている問題がたくさんあるだろう。

それでは、この3つの機能を個別に見直して、最終的に大局的な観点から擦り合わせ調整すればいいかと言えば、そうはいかない。教育の機能を、基礎教育と専門教育と職業教育という3つの機能に分けて考えるということ自体が、典型的な床屋談義であり、ブログのネタとしてはそこそこ良いかもしれないが、専門家には受け入れられないだろう。専門家は、たぶんもっと違う分類をするし、分類の方法についてさまざまな立場があって、その区分の仕方について合意するだけで大騒動になるに違いない。

現代社会は、非常に複雑なたくさんの要素で構成されている。それぞれが互いに関係なく作動している分にはなんとか回っていく。おでんと少年ジャンプと祝儀袋は、同じレジを通ること以外に互いに何の関連もなく同じ店舗内に置かれていて、それでうまく回っている。

しかし、多様な要素の多様な動きが一箇所に集約されるポイントが存在することも避けられない。教育はその典型で、いかに教育の機能を分割し分散化しても、教育を受ける子供を分割することはできない。カリキュラムや教育の場をいくら分散多様化しても、特定の子供の為にそれを統合してひとつの体系にまとめあげる人は必要である。

多様な立場、多様な観点の人たちが、ある一点で合意することは、どうしても必要である。むしろ、他の場では避けてきた合意、先送りにできていた合意が、一人の子供の前で必然的に要請されること、それが教育の本質であって、教育問題の根本だと思う。

だから、教育問題は、教育の問題ではなくて、複雑さと合意の問題、複雑な社会において合意のコストがとてつもなく高くなっているという問題であるととらえるべきだと私は考える。

そういう点で、もうひとつの「極端な複雑さを一点に集約する」という問題に対する非常に優れた解が、解決の参考になるかもしれない。それは、インターネットの通信プロトコルである。

インターネットは、現代社会全体の複雑さにも匹敵するとてつもなく複雑なものであるが、それが一つの物理的なネットワークを共有している。多様な通信が物理的なネットワークを共有する為の取り決めが、TCP/IPというインターネットの通信プロトコルである。

毎日のように新しい応用が生まれているインターネットが、多様性を抑圧することなくうまく動いている理由は、「合意コスト高に対する合意」だと思う。

TCP/IPの技術的な基盤である IP というプロトコルは、非常にシンプルで最低限の機能しかない。従って、これが改訂されて IPV6 という規格に生まれ変わる時には、さまざまな機能を追加することが要請されたが、最終的には、IPV6の本体(基本ヘッダー)は、今のIP(IPV4)よりさらにシンプルなものになった。

より一層単純なものを作る為に、世界中のネットの専門家が集まり膨大な議論をして最終的に合意したのである。なぜ、そんなことをしてそんなことができたのかと言えば、底辺に「合意コスト高に対する合意」があったからだ。また、大半の専門家がその合意をすることを未来への責任と考えたからだろう。

多様な応用から発生する多様な要望を擦り合せて、ひとつの筋が通った体系にまとめあげるのは、非常に時間がかかるし、必ず見落しがある。だから、合意する範囲をできる限り小さくすべきである。現在の知見で無理に大きな合意を作りあげても、それは将来必ず足枷になる。だから、小さくどうしても省けない最小の範囲で合意をまとめあげたのだ。合意する体系を小さくすることに叡智を結集したのである。

おそらく、IPV4を設計した人もIPV6の規格制定に集った専門家たちも、ほとんどの人が、通信の全てのジャンルにわたる大きな体系を作ることが充分可能な人たちだったと思う。

これから教育に関する議論をする専門家も、多くの人が、ひとつの大きな体系として教育のさまざまなジャンルを設計できる人たちだろう。

問題は、彼らが自分の能力をいかに限定できるかである。

大きな体系を合意するには、非常に多くの労力と膨大な時間がかかる。ある観点から見て最適な体系であっても、それが他の観点と一致するとは限らないし、将来も最適である保証はない。大きな体系を構築するより合意することの方にコストがかかるのである。

「合意コスト高への合意」があってはじめて、多様な専門家の多様な観点が噛み合った小さな合意が得られる。

その小さな合意が、多様で柔軟な応用への基盤となるのだ。

インターネットは、さまざまな目的別のプロトコルが複雑に絡みあって動作している。そして、新しい応用が生まれるたびにプロトコルが柔軟に変化している。それができるのは、IPという小さな合意が基盤としてあるからだ。

教育は、インターネットのような多様で重層的なプロトコルに似たものとして生まれかわるべきであり、それは、「合意コスト高への合意」無しにはありえないと思う。