「法」と「制度」について 〜 YouTubeを例題として

アンカテ(Uncategorizable Blog) - YouTubeと小泉郵政改革の共通点は「合意形成プロセスの再起動」の続きのメモ。

阿部謹也さんが言っていたけど、ヨーロッパでも中世のある時点まで、お話の中の登場人物には自由意思がなかった。たとえば、誰かが殺されて親族が仇討ちする時、共同体の意思(ルール、しきたり)がそのまま個人の意思であって、それは、共同体の意思と個人の意思が一致しているというより、個人の意思が存在してなくて、個人は共同体の細胞みたいなものであったと。

その状態では、個人=市民は存在してなくて、個人=市民と社会=共同体の葛藤も存在してなくて、両者を隔てる壁もなければ、両者を調停する法律も不要である。だから、国家というのは、その時には存在していない。

個人=市民という意識が発生してはじめて、個人=市民 VS 社会=共同体の葛藤が発生して、それを調停する機関として国家が要請される。

国家の機能は一つには、社会から個人=市民を守ること。というか、個人=市民は国家がなければ社会に抹殺されかねない。その個人=市民というのは、むしろ、国家と共時的に発生しているとしかいえない。

finalventさんが言っていることを、そのように理解していいのかもうひとつ自信がないが、そういうものだとすると、

法は、いろいろあるにせよ、究極的には、国家を縛るためのものとしてある。なぜかというと市民から貸借された権力だからだということになるのだが、それはさておき、市民=国民への正義の利得性の標識になるからだろう。

つまり、法によって国家は正義の代理たりえているというわけだ。

ここから必然的に法と権力=国家を巡って、立法、司法、政府(行政府)=国家=権力、という制度が必然的にできてくる。

「法」というものは、「立法、司法、政府(行政府)=国家=権力、という制度」の上位にあるということになると思う。

「国家」や「制度」というものは、普通、それが継続的に運用されている文脈の中で語られる。法律は変え得るとしても、変える方法は別の法律の枠内で規定されている。だから、法律の変更に関わるのは「制度」という下っぱであって、上位にあるはずの「法」はそこにタッチしてない。

「法(=一般意思)」が「制度」を産む瞬間、つまり「国家」の起源のようなものは、神話的に語られるだけで、日常の法律運用とは別の世界のこととされる。

「法」が「制度」を産む瞬間というのは、簡単には見物できなくて、見物できるとしたら普通身の危険があるというか、傍観が許されないようなのっぴきならない歴史的事件に立ち会うという状況である。つまり、「法」は「制度」の上位にあるが、「法」を直接見ることはほとんどできない。

YouTubeとかiTMSとかWinnyとかを通して、何か他ではめったに見られない非常に珍しいものを見ているように思うのだけど、それが「法」が「制度」を産む瞬間ということではないだろうか。

そして、革命について (ちくま学芸文庫)で、アレントは、やたら「はじまり」とか「創設」にこだわっていたけど、それはこういう感覚ではないだろうか。

もちろん、命の危険なく安全にそういうものを目撃できるのは、我々が安定した制度に守られていることを示している。

だけど、YouTubeがコンテンツ供給者とユーザの間にWin-Winの関係を作り、動画のフリー配信が自由な世界を作ることに成功したら、それは、単に制度の中で法律が変更されたということとはちょっと違うと思う。ある制度が継続して運用されている上で、別のレベルで「法(=一般意思)」が「制度」を産んでいるということになる。