<帝国>とは共産主義者が書いたもうひとつの悲観的な「WEB進化論」かも

「WEB進化論」の楽観主義に抵抗を感じた人は、これを読むとよいかもしれない。

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性
<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

「WEB進化論」はさまざまな読み方が可能だが、現代社会を政治的な観点から分析した「権力構造の構造的変化」という視点で読むことも(かなり偏った読み方だが)できなくはない。そうとらえた場合、ちょうどこれを補完する悲観的な観点(とそこから脱出する手掛かり)をこの本が与えてくれるかもしれない。


とは言っても

もし、<帝国>がつねに絶対的な肯定性であり、マルチチュードの統治の実現形態であり、絶対的な内在装置だとしたら、それは、このような定義とは対立する他の何らかの必然性や超越性のせいではなく、まさにこの定義の地勢上でこそ危機にさらされるということだ。危機とは、内在性の平面上でのオルタナティブな可能性のしるしである--つまり、それは必然的ではないがつねに生じうる危機なのだ(P466)。

みたいな、左翼臭プンプンする謎用語と悪文のオンパレードが500ページ以上続くし、5600円もする本だから、ちょっとやそっとの覚悟では読めません。私は図書館で借りたからまだよかったけど、全部目を通して10分の1も理解できなかったから、買ってたら結構損したと思うだろうなという気がする。

逆に言えば、「WEB進化論」には<帝国>の重要なテーマのひとつが、一流コンサルタントの平易な名文で実証的に書かれている。筑摩書房さんは、AdWordsで「ネグリ」と「ハート」という単語を買って、「<帝国>みたいな難しい本はどうせあんたにゃわからんよ。それよかこの梅田本でも読みなさい」キャンペーンをやったらいいのではないか。

というのは冗談だけど、<帝国>も自分に理解できた所はとても面白かった。

ローマの道路と同じように、鉄道は帝国主義的な工業生産において、コミュニケーションや輸送のラインを新たな材料、市場、労働力に対して広げるという外的な役割を果たしたにすぎない。新たな情報のインフラストラクチャーの斬新さは、新たな生産過程に埋め込まれており、それが完全に内在しているという点にある。現代の生産の頂点に位置する情報とコミュニケーションは、まさに生産された商品にあたるものなのだ。ネットワークそれ自体が、生産と流通双方の現場なのである(P384)。

これは、ローマ帝国の道路網と産業革命の鉄道網と現代の「情報ハイウェイ」を比較して、その共通点を述べた後で、「情報ハイウェイ」は鉄道や道路とはちょっと違う所があると言っている所。

「情報ハイウェイ」という死語に近い言葉を使っていることから想像つくかもしれないが、これ(原書)は2000年の出版であって、WEB1.0の時代(かそれ以前)に書かれている。しかし、「ネットワークは情報の流通でなく生産の現場である」という指摘はまさに慧眼。この一節を読んで、これはちょっとナメちゃいけない本だと思った。(実は、パラパラ飛ばし読みしててこの一節が目に止まり、あわてて最初から熟読したのだが、やはり10分の1しかわからんかったorz)

「工場が価値を産み、鉄道がそれを配る」というモデルで、生産物が有形物から無形物になっただけだと思っていて、「情報工場」のある場所を探せばいいと考えると、資本家は儲けそこなうし、労働者は闘争の相手を見失う。産業社会とポスト産業社会で何が一番変わるのかと言えば、「ネットワーク」そのものが価値の源泉になったということだ。つまり、「不特定多数無限大」が権力であり、その恐い側面をネグリとハートは<帝国>と呼び、同じもののプラスの面を「マルチチュード」と呼んでいるのではないかと思う。

以下、理解できた所を抜き出して適当にコメントをつけていく。

近代化の過程と工業の支配のパラダイムへと向かう移行において、農業生産はたんに量的に衰退しただけではなかった。より重要なのは、農業それ自体が変容したということである。農業が工業の支配下に置かれるようになったとき、量的にみればいまだ農業が優勢であっても、それは工業の社会的、財政的圧力に服従するようになったのであり、しかも農業生産そのものが工業化されたのである。農業はもちろん消えてなくなったわけではなく、近代の工業経済においても本質的な構成要素でありつづけている。けれどもいまやそれは変容しており、工業化された農業となっているのである(P364)

ちょっと前の「工業化された農業」と同じように、現代の工業は情報化されている。情報産業、知識産業の力学が世界を仕切っているということに注目すべきである。iPodなんてまさにそうでしょう。

私たちはさらに、情報経済へと向かう移行の渦中にあって、人間についての私たちの観念や、人間性そのもののなかで変化が現れていることをより詳しくみてみる必要がある(P373)

そのことによって、経済だけでなく、社会全体が変動していて、何より一般人の世界観が変化している。

じっさいほとんどのサーヴィスは、情報と知識の絶えまない交換にもとづいている(P375)。

もっとも初歩的な人工知能でさえ、コンピュータがユーザやユーザ環境との相互作用にもとづいてその操作性を拡大し、改善していくことを可能にする。それと同じような絶えまない相互作用が、現代の生産活動を幅広く--直接にコンピュータのハードウェアが使われているか否かを問わず--特徴づけているのである。こうしたコンピュータとコミュニケーションによる生産の革命が、労働のさまざまな実践を、そのすべてが情報やコミュニケーションのテクノロジーのモデルへと向かうように変容させたのである(P376)。

仕事にネットやパソコンを使わない人でも、自分を、相互作用の中で変化していく「ネットワークのノード」のようなものと見る。ちょうど工業化時代の労働者が自分を「機械の歯車」と見たように。労働の実態、本質もそのようなものになっていく。

政治的見地からすると、グローバルな情報のインフラストラクチャーは、ネットワークシステムの別々のモデルに即して働いていてる民主主義的なメカニズムと寡占的なメカニズムの組合せとして特徴つけることができる(P384)。

これはまさに、集団知ベースの新しい民主主義が形を表しつつある一方、それを特定の少数の企業が支えているという今の逆説的な状況を予言しているかのようだ。ここで「コモンズ」に目をつけるところが、また凄い。

じっさい、今日私たちは、かって資本主義の歴史のなかでは経験されたことがないぐらい深く根本的な共有性に参画しているように思える。じじつ、私たちが参加している生産的な世界は、コミュニケーション・ネットワークや社会的ネットワーク、相互的なサーヴィス、共通の言語から成り立っているのである。私たちの経済的・社会的現実は、つくられ消費される物質的な対象によってよりも、共同で生産するサービスや関係によって定義されるようになってきている。生産するということが、協働や、コミュニケーション的な共有性を構築することを意味するようになってきているのである(P388)。

工場や農地は私有されることが自然で、ネットワークは共有されることが自然である。そのネットワークの本性を具現化することが、闘争のめざすべき方向であるとネグリとハートは言っているように思える。

共有のものとはマルチチュードの具体化であり、生産であり、解放なのである。ルソーは、自然の一部を彼または彼女の排他的な所有物にし、それを私的所有権という超越的な形式に変えることを望んだ最初の者こそは、悪を発明した者であると言っている。善はこれとは反対に、共有されるものなのである(389)。

ただ、その「闘争」は、ネットワークという情報産業の基盤(現代の資本家どもの本拠地!)に便乗しているわけだから、そこに危うさがあるのも確かだ。

次の一節は、2ちゃんねるの小泉礼賛やネット右翼を批判した文章のように私には読めた。

強大な産業・金融権力は、商品ばかりではなく、主体性をも生産しているのである。それらは生政治的な文脈のなかで行為者的な主体性を生産しているわけだ(p52)。

サヨクネット右翼を批判しても面白くもなんともないが、事前に思弁的な思考のみからそこに到達していることは偉いと思う。小泉信者やネット右翼は主体的で自律的であるけど、その主体性は誰が生産しているのか?みたいな話。

<帝国>的機械は、自己の妥当性を立証する、オートポイエーシス的なもの--つまりは、システム的なものである。それは、いかなる矛盾をも除去するか無力なものにしてしまう、社会的織物を構築するのだ。言いかえるなら、それは強制的に差異を中和してしまうよりも先に、自己生成的かつ自己統御的な、取るに足らない均衡ゲームのなかに差異を吸収してしまうようにみえる状況を創り出すのである。(中略)つまり、それは完璧にポストモダンなやり方でアイデンティティと歴史を解体しながら、普遍的な市民権のプロジェクトを推進すると称し、そしてこの目標に向けてコミュニケーション的な関係のあらゆる要素に対する介入の効力を強化しているのだ(p54)

しかも、それが(つくる会のように?)「普遍的な市民権のプロジェクトを推進すると称し」、サヨクマスコミの批判を「取るに足らない均衡ゲームのなかに差異を吸収し」「除去するか無力なものにしてしまう」ことも、この人にはわかっていたようである。

私は、昔も今も小泉信者だけど、こういう批判を読みたかったと思うような見事な批判である(もしそう読むことが正しいとして)。

それで、ではこの<帝国>という司令塔の無い掴みどころの無い権力とどう闘うべきか。

<帝国>の権力とは、つねに新たなエネルギーや価値の源泉を創造しつづけるマルチチュードの力から、みずからの活力を引き出す寄生するものなのである。しかし、この寄生体は、宿主の力を吸い取ることによってみずからの存在を危うくしてしまうだろう。<帝国>の権力の作動が不可避的に<帝国>の衰退をもたらすのである(P452)。

チーム世耕が頑張れば頑張るほどそれがネタ化してしまうみたいなことか。

データインサイドは、インテルインサイドと違い、データがたとえどこかのサーバに保存してあるとしても、本質としては外側にあって、それを利用する者は寄生するしかないことだ。寄生する者は栄養を取りすぎれば宿主が死ぬし、手綱を緩めすぎれば宿主が逃げる。過去の権力と比較して、安定性、継続性に欠けるのは、本質的なことなのである。

ポストモダン的共和主義という実効的な概念は、[<帝国>の]真只中で、グローバルなマルチチュードの生きられた経験を基礎にして構築されなければならないだろう。そのさい、もっとも基本的かつ初歩的なレヴェルにあるものとして指摘しうる要素は、対抗的であろうとする意思である。(中略)じっさい敵を同定できないことは、抵抗への意思をそうした逆説的円環のなかに閉じ込めてしまうことに往々にしてつながるのだ。とはいえ、搾取がもはや特定の場所をもたない傾向にあること、そしてまた、あまりに深くて複雑な権力のシステムのなかに私たちが浸っているために、特定の差異ないしは尺度を規定することがもはやできなくなっているということ、これらの条件を考慮するならば、敵の同定は取るに足らない仕事などではまったくないのである。私たちは日々、搾取・疎外・指定といった敵のせいで苦しんでいるけれども、抑圧を産み出すものをどこに位置づけるべきなのかわからないのである。しかし、それでもやはり私たちは抵抗し闘いつづけている(p277)。

まずは、「どこがおかしいのか具体的に指摘できないけど、なんかおかしい、おかしいことには同意しない」という「意思」が闘いの起点になると言う。

対抗的であろうとする意思が本当に必要としているのは、指令に服従する能力のない身体である。つまりそれは、家族生活や工場の規律や伝統的な性生活の規制などに適応することのできない身体を必要としているのだ。(これらの「正常な」生活様式にあなたの身体が拒否反応を示したとしても絶望してはならない--むしろ、そうした自分の才能を実現したまえ!)(P283)

「指令に服従する能力のない身体」とはやっぱり引きこもりのことだろうか?

こうして、今日、共和主義者であるとは、何よりもまずその混成的で変調に富んだ地勢上にあって、<帝国>のなかで闘い、<帝国>に抗して構築するということを意味している。そしてここで、あらゆる道徳主義やルサンチマンノスタルジアからなるあらゆる立場に抗いながら付け加えておかねばならないのだが、この新しい<帝国>の地勢は、創造と解放のために今まで以上に大きなさまざまの可能性を提供しているのだ。マルチチュードは、その対抗的であろうとする意思や解放への欲望を携えながら、<帝国>を押し分けて進み、ついにはその向こう側へと抜け出さなければならないのである。

マスコミや民主党が自民支持層を衆愚として外から批判したことは、いわば「<帝国>のなかで闘い」を拒否して逃げたということで、むしろ「<帝国>を押し分けて進み、ついにはその向こう側へと抜け出さなければならないのである」

これは「こちら側」の人が、「あちら側」に参加せず眺めて外から戦おうとしていることにも言えていて、むしろ「<帝国>を押し分けて進み、ついにはその向こう側へと抜け出さなければならないのである」

つまり、<帝国>や「不特定多数無限大」や「ロングテール」や「集団知」について、外側から批判することは無意味に思える。私が、ネグリとハートに共鳴するのはその点で、「外側」は無いんだよと言いたいのである。自分のいる所が「外側」であると思っていて、そこから安全に正しく批判しているつもりが、実はそのシステムに取りこまれてしまっている。そんなことになるなら、「突き抜けて」しまうことを目指すべきだと思うのだ。「外側」から「あんなものはいいかげんでたいしたことない」と言っていると、相手は予想外に強いのだが、「突き抜けて」みれば、案外モロかったということになるのではないか。

だから、「資本家は<帝国>を読んでしっかり儲けなさい、労働者は『WEB進化論』を読んでしっかり闘争しなさい」と私は言いたいのである。

あとおまけとして、

ポスト近代性への、そして生政治的な生産への移行においては、労働力はますます集団的で社会的な性質を帯びるようになる。「同一労働、同一賃金」といった旧いスローガンも、労働が個人に分割できず計測不可能なときには支持することはできなくなるのだ。資本の生産に必要なあらゆる活動には同等の報酬が賦与されてしかるべきだという社会的賃金の要求は、社会的賃金がじっさいには保証収入であるというようなやり方で、人口の総体へとこの要求を拡大していくのである。ひとたび市民権が万人へと拡大していくなら、この保証収入のことを、社会の構成員すべてに当然支払われるべき報酬として、市民権収入と呼ぶことができるだろう(P500)。

これはBIですよね。<帝国>にBIのことが書いてあるのは知らなかったけど、そういう方向に考えるとやはりそうなるのかと思ってちょっと安心。(意外なことに、普通の共産主義者はBIを嫌うみたい)

関連:アンカテ(Uncategorizable Blog) - 防御壁の流動化にまつわるアンチパターン

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論 の書評なんだけど、この本がネグリやハートの影響を受けているらしい。私はそんな背景を何も知らずに「ドラッガーの暗黒面」と言っているが、ハートはドラッガーを(たぶん批判的にだろうが)よく勉強してるらしいので、そこはちょっと当たってたかなということで。

あと、こちらの方も「「帝国」をビジネス書として読むことも可能ではないでしょうか」とおっしゃってます。