それでも私は信じている、言葉のチカラを!(堀掘問題検証3)
ちょっと忙しくて更新できない間に世間でもブログ界でも、いろいろな話題が飛び去ってしまっているわけですが、私はまだまだこれに引っかかっています。「堀」「掘」誤報の件検証2に書いた、
という論点の3と4について書いてみます。
経験的に言ってだいたい「祭り」の初期には多様なネタがあまり検証されていないうちにまとめられて一定の結論に導くようにテンプレ化される。イラク人質事件でも自作自演説のテンプレ(10項目くらいの「根拠」をリストアップしたもの)が一日で出てきた。
2ch には多様な意見があると言っても色んな意見がまんべんなく出てくるわけではない。特に情報が少ない祭りの初期には些細な情報が過剰に意味付けされがちで、出てくる意見には偏見が混じりやすいし、この時期の客層は「はしゃぎすぎ」属性が強くて慎重さや冷静さは期待しにくい。
テンプレ化されコピペが出回る頃には意見のバランスは(一時的にではあるが)一気に傾く。往々にして正解にたどり着くまでは大きな揺れがあるし、揺り戻しの力は 2ch の自浄作用というよりは 2ch の外から供給される事が多いのではないか。
このあたりの2ちゃんねるの特性の見方については、私も同意します。2ちゃんねるが一直線に「正解」にたどりつくことは少ない、そう思うからこそ、永田メールについてフォントの鑑定から確定的な偽造の証拠を発見したと勘違いした時には、「これは珍しいことだ」と思ってすぐに記事に取り上げたわけです(書いた時には、それが一過性のものではなくて、その「揺れ」の周期が縮まっているのかもしれないという期待があったことは否定できませんが)。
ただ、それをどう評価するかということが違っています。私は、これらの特性を肯定的に評価します。
まず「偏見」のテンプレ化については、もしそれが本当に「偏見」であるならば、テンプレ化されることで論破しやすくなります。「偏見」の背景には、他の手段では表明できない漠然とした不満があると思うのですが、それが気分のままで言語化されてなければ、その「偏見」を正すことはできません。テンプレ化というのは世論の集約であるわけで、その意見に共感できない人にとっても、論破する対象を与えるということで重要な意味があると思います。
それから、「大きな揺れ」という問題については、その揺れにともなって大きなアテンションがあちこちに行きわたり、その中で重要な事実が掘り起こされていくので、結果としては、幅広い視野が多くの人によって共有できるのではないでしょうか。
それと「揺り戻しの力は 2ch の自浄作用というよりは 2ch の外から供給される」ということも重要だと思います。
つまり、2ちゃんねるは、外部からの異質な意見を取りこむだけの柔軟性を持っているということです。2ちゃんねらが、年齢層や政治的指向性の点で日本の平均から偏っていることは否定できないと思いますが、メディアや議論の場というものは参加者の一定の属性を期待するものですから、どのような場であっても、特定の偏りを排除することはできません。だから、参加者の多様性よりは、システム全体が外部とどのように相互作用しているかが重要だと思います。
その点で、2ちゃんねるが外部からの異質な意見を完全に無視することはあまりない、ネタ化して揶揄するということは、少なくとも存在を認めるということで、無視するよりはずっといいと思います。
たとえば、rnaさんが提起された「在日の就業と生活保護の統計まとめサイト」はデマサイトという問題がありますが、ジオにあるまとめサイト本体では一切の反応が無いのに対して、2ちゃんねるでは不十分ながらも指摘に対する反応があるわけです。この時点では「デマの数字で煽るスレがまだある」とのことですが、私の感覚では、この間違った数字を元にした定型的なコピペは、最近はあまり見なくなったように思いますが、どうでしょうか。
2ch の仕組みではデマのバブルとその崩壊、みたいな激しい揺れ幅に振り回されて余計なコストがかかってしまわないか? コピペ兵の尻拭いみたいなコストは必要なコストなの?
私は、政治的なものごとでは、こういうコストは必要なコストだと思います。
最初から、一定の見識を持つメンバーだけの閉じた議論で、間違いの訂正を自浄作用に頼るのであれば、無駄に議論が揺れたり寄り道をしたりということはありません。しかし、プロセスを共有する機会がなくて、結論のみを正解として提示されても、それが多くの人に共有されるものになるかどうか、それは疑問です。
「工作員」の「意図的な扇動」なんかより薄く広く共有された偏見のほうがよっぽど怖い。そんな時、集団知はナチュラルに間違った解に収束し、権威付けされ、偏見を再生産することにならないか。
上の生活保護の問題なんかは、まさに「薄く広く共有された偏見」が「ナチュラルに間違った解に収束した」例だと思いますが、私は、それが可視化され訂正と議論の機会を得たことの方が重要だと思います。「薄く広く共有された偏見」は訂正することも議論することもできなくて、だから過去には独裁者によって悪用されたわけです。だから、私はむしろそれが薄く広く共有された状態で放置されていることの方が恐くて、集団知にそれを可視化しフォーカスを当てる機能があるならば、それを活用すべきだと思います。
問題は、それにフォーカスが当たって議論となった時に、言葉と言葉がぶつかって正しい言葉が残るのか、ということではないでしょうか。
どのような言葉を発することにも制限が無い場があれば、その勝敗は、言葉の力だけで決します。
2ちゃんねるが、本当にそういう場であるのかどうかは、別のひとつの大きな問題です。コピペ兵の物量と正しい言葉の戦いになって、前者が勝つというケースは多いかもしれません。しかし、常に間違った言葉に正しい言葉で対抗する手段は残されているのですから、最後には正しい言葉が勝つと私は思います。
集団知に対する実証的な議論とは別のレベルで、私には信念というか信仰のようなものがあるのかもしれません。つまり、私は「言葉の力を信じてる」のだと思います(言葉と言葉の直接対決を必死で回避しているように見えるあの新聞社がなんでそう言うのかわからないのですが)。