まなざしの快楽 - 「のまネコ」インスパイヤ問題はなぜ「戦争」なのか その3
「のまタコ」によって、著作権など法的な問題として決着しているのでと、逃げ切ろうとするエイベックスを舞台の上に引きずり出す、ということだ。法的に許されれば解決なのか、そこに「民意」という審判を問うということだ。参議院で否決されたから廃案とされても良いのか、「民意」に問うてみたい。
このような「舞台」が成り立つのは、あたかも直接民主制ような審判の「舞台」があるような状況ができあがっているということ。
納得できる分析である。
そして、「舞台」がお手本と違うことだけに怯えている人が多すぎる。お手本となる西洋の民主主義だって、長い間ゴタゴタして今のようになったのだ。
かまわず新しい民意の審判の仕組みを、ガンガン使っていけばいいと思う。
失敗して国がつぶれるくらい何でもないことだ。これまでも、たくさんの国がつぶれてきたけど、人類に遺産を残せたアテネのような国はそうはない。「衆愚、衆愚」と言っている人だって、そもそもアテネ人が馬鹿じゃなかったらその「衆愚」という言葉が生まれなかったのだから、アテネ人が馬鹿であったことに感謝して、そのような貢献が我々にできないか考えるべきである。
日本は、この「舞台」を従来の文脈と違う所で使うことにおいて、世界の先頭を走っている。成功しても失敗しても人類に貢献できるのは間違いない。面白い「祭り」さえ残せば、後世がそれを「インスパイヤ」してもっと使えるものにしてくれるさ。