本拠地を移すタイプと守るタイプ

小泉さんと信長が似ているなんて今さら言っても何の目新しさもないが、「本拠地をどんどん移動していく」という共通点があることに気がついた。

信長は、美濃を制した後すぐに岐阜に本拠地とし、天下統一のめどがつくと安土城を作った。秀吉が大阪城を根拠地にしたのは、信長のプランを継承したという説もある。信長は根拠地をどんどん移しながら勢力を拡大していった。

小泉さんは、当初、YKKという若手の改革派を基盤としていたが、総裁選の時は自民党の地方支部票を取り込み当選した。そして、今度は、無党派を本格的に引きつけようとしている。自民党の中で地位を確立するに従い、YKKのKを切り、今は、刺客作戦ホリエモン擁立などの地方支部の反発がありそうな策で無党派に訴えている。

どちらも、自分が確立した基盤を、次のフェーズであっさりと捨てて、より大きな仕事に合わせた基盤を新しく作る。そこに躊躇がない。次に何をやるのかビジョンを描き、その為に最適な根拠地をゼロベースで選択する。過去との互換性より未来との接続性を重視する。

岐阜は中央進出の為の根拠地として最適の場所で、安土は日本統一の為に各地の方面軍を指揮し支援するのに最も便利な所。そして、大阪は海外進出を睨んでのことだろう。

この二人にとって、「現実的な政策」とは、現在地から容易に到りつける場所ではなくて、目標となる地点への交通が便利な場所なのだろう。現在地から容易に到りつける場所に移動して、そこから多くの障害を乗り越えて目標に達する方策は非現実的なものだとみなすのではないか。

実際、信長以外の戦国大名は、現在地から最も攻略しやすい所を狙って着実に成果をあげていたが、誰も目標までたどりつかなかった。もし、彼らが天下平定を夢見ていたなら、その行動は空想的であったということで、唯一現実的な路線を選択したのが信長なのだろう。

しかし、これについていけない人もいるのは確かで、明智光秀は、丹波を返上し中国2国に移るよう命ぜられたことでキレたという説がある。信長は部下に対しても根拠地に留まったまま次の仕事をすることを許さなかった。彼の新しい領地はずっと大きく、その平定は彼の能力と当時の情勢から見て容易なことであったのだが、細心に領地の経営に専念していた光秀には受け入れ難かったのかもしれない。史実としては別の説も最近は有力なようだが、この説が長く定説だったのは、その光秀の気分に共感する人が多いからだろう。