よしだたくろうのひきがたり

私は、ややマザコン気味のボーっとした少年だったので、洋服なんかも母親といっしょにデパートに行って、「これ似合うんじゃない」みたいにあてがわれたものを素直に着ていた。

だから、回りの友達がレコードを買いはじめて、自分もラジオを聞いて「ああいい歌だな」みたいに思うこともあって、自分もレコードってものを買おうとした時も、「おかあさん、レコード欲しいんだけど」と言う知恵しかなかった。

そうすると、私の母親は私をデパートでなくレコード屋につれて行き、「どういうのがいいのよ」「わかなんないよ」という会話すると、すぐに自分で探しだし、「あっ、これがいいわよ」と言ってレイ・チャールズのシングル盤を手に取った。確か「アイキャントストップラビングユー」という曲だったと思う。

「うん、じゃあそれにする」と私は素直にあてがわれたそのレコードを買って、「レコードってものを買ってもらった」みたいに喜んで少しワクワクしながら帰って、早速それをかけてみたのだが、なんか違う気がする。その曲は、母親が若い頃にヒットした曲らしくて、当時は大人気で今聞いたら逆に渋いと思うかもしれないけど、70年代に中学生が聞くにはどうにも古ぼけた曲で、もちろん自分がラジオで聞いていた曲とはぜんぜん違う。

書いていて「その段階に至る前に気づけよ!」と突っこみを入れたくなるほど、マの抜けた中学生だった私は、それでもようやく、自分の好きな曲を買うには、自分で曲の名前を覚えて自分で選択しないといけないことに気がついたのだった。

それで、多少気をつけながらラジオを聞くようになり「よしだたくろう」という名前を覚えて、何ヶ月かかけて少ない小遣いをためて、17個の100円玉を握りしめて、レコード屋へ行った。一目散にそのアルバムを手に取り、レジにかけより「これください!」と言ったところ、レジのおねえさんは、そのあまりに純朴さに感動したような様子で、「がんばって、おこづかいをためたのね。ひとつサービスしてあげるわね」とスタンプを一つ余分に押してくれた。

私の音楽遍歴はそうやって純朴なフォーク少年としてスタートしたのである。

しかし、ここから急に私は大人になり、次のレコードを買う時には、貯金箱にお年玉か何かの千円札が交じっていて、それに小遣いを足して予定額に達したのだけど、「これでは前のような奇跡は起こらないかもしれない」と、わざわざ千円札を100円玉に崩して、またサービスのスタンプをもらおうという悪巧みをするようになっていた。しかし、レジのおねえさんは、私のことをごく一般の客として機械的に処理して、スタンプは当然のように所定の数ピッタリだった。人を感動させるほどの純真さは、数ヶ月であとかたもなく消えうえせてしまっていた(笑)。

それと同時に、フォークというジャンルからも急速に私は遠ざかっていった。特に、ギターのひきがたりという形式が嫌いになった。

ひきがたりは、バンドの欠如であると私には思えた。ミキシングの時に、ドラムとベースとリードギターとその他もろもろのトラックを消して、ボーカルと生ギターだけ残して作った音楽のように感じて、「何でバンドの音を抜いてあるのこれは?」という気がしたのだ。

そういう印象を与えない曲もあったが、そういうものでは逆に、詞が主体であって、ギターは詩の朗読の演出効果でしかないように感じた。語りでなくちゃんとメロディーがついていても、ギターが脇役であるというより黒子にされているような感じで、それがイヤだった。

その頃、「反戦歌」は反戦歌に聞こえた。反戦がしたいなら反戦をすればいいし、歌が歌いたいなら歌えばいい。でも、なぜ反戦のおまけみたいに歌を歌うの?と思ったものだ。

もちろん、当時の私がこのように自分や自分の聞いている音楽を分析できたわけではない。ただ私は、その最初に買って何度も聞いて本当に感動したよしだたくろうの歌が、どんどん変質して行くのに微妙な違和感を感じつつ、そこを通り過ぎて行っただけだ。「歌」にずうずうしく割りこんでくる「反戦」というものに、「なんだこいつらは」と思ったのが、私のサヨク嫌いのはじまりなのかもしれない。

よしだたくろうは、あからさまに政治的なメッセージは歌わなかったけど、時代の流れに抗して踏み留まるには、あまりに繊細な人だったのだと思う。だからこそ、何十年もたって堂本兄弟において、あれほどあっさりとしっくりとテレビの画面におさまることができたのだ。

このベストアルバムは、そういうよしだたくろうの原点が収められている。大半がギターとハーモニカに歌のみのひきがたりで、残りも若干のアコースティック楽器で控え目のシンプルな伴奏が加わっているだけだ。

しかし、私は今、そこに何の「欠落」も聞かない。堂々と完結した音楽がそこにある。歌とアコースティックギターのみによって完成した素晴しい音楽がそこにある。昔も、この音楽をただ音楽として聞いて、とても好きだったことを思い出した。

時代は、実は繊細なこの人をもてあそび過ぎたと思う。よしだたくろうは、パフォーマーではなくまじりけなくミュージシャンであった。しかし、時代は彼に叙情的な音楽でなく、マッチョなメッセージを発信することを強制した。彼はそれに従い、バンドをしたがえて、叩きつけるようにシャウトして燃え尽きた。

そこにもいくらかは聞くべきものがあったけど、私はよしだたくろうより、彼にそういうパフォーマンスを強いるたくろうのファンたちが嫌いになって、そこから離れていった。

名曲ぞろいのこのベストアルバムの中に、「馬」というふざけた曲があって、その曲の中で馬は、彼の初期の代表作である「今日までそして明日から」を歌っている。自分の曲を歌わされる馬とは、時代にマッチョな鈍感さを強いられはじめた彼自身の姿であったのだということに、私は30年以上たって初めて気がついたのだった。