みんなという「場」の持つ圧迫

リリカさん


「その言葉を発した主体」は目の前にいるその人なのだから、「不明確」になりようがないのでは?

と、聞かれたことに答えようとして、いろいろ考えているうちに、新しい人事マネジメントに必要な「場の理論」というサイトを見つけました。


個は全体を反映する構成要素であると同時にそれ自体全体である。個は全体に働きかけると同時に全体からも働きかけられる。個のアクションは全体に影響を与えるが、全体からの反作用の影響もあって、それがどうなるかによって全体のあり方が変わるため、全体の予測は困難である

このような意味での「場」というものが、日本人同士の人間関係に関係していて、それは、日本語について考えることでいくらかわかってくるのではないか、ということを私は考えています。

例えば、数人のグループで昼飯を何にするか決める時に

  • 「何にしようか」
  • 「何にしようか」
  • 「○○○とかどうかね、それとも△△△」
  • 「△△△いいねえ」
  • 「そう言えば○○○行ってないなあ、最近」
  • 「何にしようか」
  • 「俺も」
  • 「△△△かあ」
  • 「そうだよなあ」

というような、誰が何を食いたいのかわからないボヤっとした言葉のやりとりがあって、何となく収束していきます。

よく知っている同士だともっとザックリ決まるし、全くの他人同士だともう少し形式的になります。かなり久しぶりにあった同窓生とか、会社のセミナーを一緒に受けた人たちとか、微妙な親しさで上下関係がはっきりしてない人間関係だと、このあいまいさが明解になってくると思います。

こういう会話の作用を「場を形作って、場に従う」と表現すると、そこで起こっていることの意味が明解になるような気がします。「場」とはそこにいる人全員の総意であって各人の意思の総和ではあるのだけど、各人の意思は独立した自由意思ではなくて、「場」の制約を受けている。「場」の制約を感じつつ微妙な意思表現をして、その意思が全体としてまとまり「場」が形作られていく、という感じです。

つまり、「場」と個人の関係は、どちらかがもう一方に作用するという明解な因果関係があるものではなくて、相互作用的に非常に複雑な連立方程式を解くようにあらわれてくるものです。

欧米的な感覚の民主主義では、「場」の変わりに「合意」がありますが、「合意」は個人の意思に影響を及ぼさず、個人の意思は「合意」と独立に存在していて、個人の意思を所定の手続きで集約した結果として、「合意」が決まります。

個人から「合意」へという、その方向性が明確なので、集約の過程でハミ出したものの存在も意識されています。一定の条件を満たせば、「合意」に対してあらためて個人の意思をぶつけ、異議をとなえることも可能です。

リリカさんが「みんな」という言う時、欧米的な「合意」という感覚でそれを受けとっているのではないでしょうか。「みんな我慢してんやから」と言う人が、よって立つものが「合意」であるとしたら、その人は、個人の意思が集約されて「合意」に至る過程について、説明する責任を持ちます。そのプロセスに関して議論することは、非道徳的なことにはなりません。

しかし、「場」における個人の意思の集約は「合意」と違って全員の総意であるとされています。切り捨てられたものは存在しないことになっている。「場」はいったん成立したら異議をとなえてはいけないものです。従って、「場」は「合意」にはない独特の権力を持ってしまうことになる。


「みんな」という言葉を使うと、その言葉を発した主体が不明確になって、それについての議論を誰としたらいいのかわからなくなる、それが問題だ

と私が言ったことをより正確に言えば、「『みんな』という言葉を(『合意』でなく)『場』の意思として使用された場合に、私はその人に対して反論することに自分で抵抗を感じてしまう」ということです。

片岡義男「日本語の外へ」に書いたように、主語の無い日本語の文は、「場」が主語であると理解するとより意味が明解になることがあると私には思えます。このような「場」というシステムが、日本語の中に組みこまれていて、ある時まではそれで平和にやってきたのですが、そこに欧米から主語と主語が媒介なしに直接ぶつかって「合意」に至る新しいシステムが持ちこまれました。

「場」と「合意」のよじれた整理されてない関係が、現代の日本において、さまざまな人間関係のトラブルに現れているのではないでしょうか。

私が主語という言葉を使う時は、これに関連することを考えているケースが多いようです。そのうちいくつかをピックアップしておきます。