「文化」を基幹産業とする政策に飲みこまれていく「何か」
コンテンツの外堀を強化するのでなく、コンテンツそのもののポテンシャルを高める努力を、なぜしようとしないんだ。
というシンプルな言葉に僕は深く共感する。もう全てこのひとことで言いつくされている気がしてたんだけど、id:solarさんの著作権法改正におけるメディアの分断統治から始まるこの日の一連の文章を見て、ちょっと違う所も見えてきた。この文章は
音楽CDにおける「輸入権」導入、出版界における「貸与権」導入、そしてネットにおけるファイル交換ソフトへの取り締まり強化。この三つの現象は、バラバラに起きていることじゃなくて、一つの趨勢(それが巨大な意志の力、かどうかは別にしても)の三つの表れだ
という視点から、幅広く深い思索を重ね、その「一つの趨勢」の源流が何かと言うことにたどりついている。
やはり政府が考えているのは国の経済「競争力」であり、製造業が人件費の安い中国やアジアへ移転した(製造業空洞化)後の日本の国際「競争力」の柱として「知財」を位置づけている。なぜこうまで急ぐ?、と感じる著作権法改正も、大学改革も、みんなここから来ているのだった。
ここまで読んで、高木浩光さんのWinnyに関する文章の追記を思いだした。
産業音楽とは、たばこ産業のようなものである。
ハリウッド映画を見ていると、まさにあれは21世紀のアヘンであって、文化というより産業や嗜好品と呼ぶべきだと思う。この一連の「コンテンツなんたら」の政策を進める人たちは、僕らが「文化」という名前で呼んでいるものと違う、もっとハリウッド映画的なものについて考えているような気がする。
彼らは、僕らが思っているほど馬鹿でもないし悪意もないしむしろ誠実なのかもしれない。たばこ産業のような文化産業が、これからの国際競争力というものを左右するとしたら、「コンテンツの外堀を強化する」一連の政策こそが正解かもしれない。
唯一の問題は、僕らが「文化」と呼ぶもの彼らがそう呼ぶものが、全く違うものであるということだ。彼らが「文化」と呼ぶものによって、僕らの大事な「何か」が押しつぶされてしまうことだ。僕らが守りたいのは、たぶん彼らが「文化」と呼んでいるものではない。
ふたたび「著作権法改正におけるメディアの分断統治」から引用すると
より問題なのは、「輸入CD屋」「貸し本屋」「新古書店」「図書館」といったすでにあるメディア環境が、この法案によって大きな変質を遂げてしまう可能性があり、そうした書物や音楽コンテンツの生態系の変化が、どんな将来を生み出すのかを、法律を審議する人たちも役人も、まったく想像していない、つまり現場にリアリティをもっていない、ということなのだ。彼らはきっと、本も読まないし、音楽も聴かない人たちなのだろう。
ここには大きなすれ違いがあるけど、その本質は「文化」という言葉を、彼らと我々が全く違った意味で使っていることだ。「法律を審議する人たちや役人は」、彼らが「文化」と呼ぶものの将来については真剣に考えている。彼らは、たぶん「本も読まないし、音楽も聴かない人」なんだけど、たばこ産業関連企業の経営に喫煙者であるかないかは重要でないように、もっと自分たちが考えるべきことは他にあると思っているのだろう。
実際に、ハリウッド映画は全世界で膨大なお金を稼ぐし、これからの基幹産業となる可能性も高い。自動車もコンピュータも通産省が育てたわけではないが、そういう産業の成長を支援することは彼らの任務であった。同様に、「文化」産業の成長の基盤を作ることが仕事になっている人たちがいて、その人たちは、今、自分たちの仕事を着実にこなしているのだと思う。
だから、必要なことは彼らの仕事を邪魔することではない。個人的には、「文化」という言葉はこちらに取りもどして、彼らには「知財」という言葉を使ってほしいと思うけど、それも本質ではない。重要なことは、「知財」産業のために彼らが引き起こす「生態系の変化」から「文化」を守ることだ。
いつもの通り、全く具体策にはつながってないんだけど、僕は今、「知財」と「文化」が平和共存する道を探るべきではないかと考えている。その為に必要ことだったら、「文化」なんていうめんどくさい言葉は「知財」にあげてしまって、「何か」の為に別の言葉を使ってもいいかとも思う。
それと、これもますますどうでもいい話になってしまうが、個人的には彼のファンなので、河合さんには文化庁長官をやめて「何か」庁長官になってほしいんだけど。
(追記)
前頭葉は傷みかけさんが、これを受けて名言。
世の中には陰謀なんかひとつもなくて、間違っていることを本気で正しいと思って実行した結果で、おかしな方向へと向かっているのではないかと思う昨今。
↓も陰謀ではなくて↑なのかな?