ツッコミビリティと言論の制約

上記の結論は、今回の問題に限っての私の個人的な判断です。誰もが自分と同じように考えることは望みません。

jounoさんの


根拠を示さずに否定的な評価をすることは、別にPC的な話題でなくても、当然、つつしむべきこと

という批判は「実証可能な根拠に基づく論理的な主張でなければ、人を傷つけるような批判はすべきではない」と解釈しましたが、これには反対です。

これは、公的な言論というものが、テレビや出版物のように簡単にツッコミを入れられない媒体でしか流せなかった状況に即した常識であって、これを過度に要求することはネットという媒体の特性を殺してしまうと思います。

ネットには「○○って××だよなあ」という全く主観的な印象でしかない主張から、学問的に見て全く非の打ちどころのない妥当な論文レベルのものまで多様な言論があるべきだと思います。それが容易に並立できて、互いに参照し、チェックしあえることに、大きな可能性があると私は考えています。多様な意見がまんべんなく分布していて欲しいし、その意見のレベルも高いものから低いものまであっていいはずです。

明文化されたルールや暗黙の規範が全く不要だとは思いませんが、それは出版物におけるそれとは違うものであるべきです。具体的には「言論の制約はツッコミビリティと反比例する」というのが望ましいあり方ではないかと思います。

出版物に間違ったことや意図的な印象操作が書かれてしまうと、それを訂正する機会がないまま多くの人がそれに影響を受ける可能性があります。ですから、様々な制約があるのは仕方ないことです。特に、匿名すなわち反論が不可能な状態で一方的に人を非難することは許されないことです。

しかし、ネット上に公開された言論については、常にそれを参照して批判することが誰でにも可能になっています。特に、2ちゃんねるやブログでは、元の主張と同一のページや1クリックで行ける所に反論が書けるようになっています。ですから、暴論や印象操作の害は相対的に低くなります。

つまり(物理的)ツッコミビリティが高い場では、(ゼロではないが)なるべく制約が少ない方が望ましく、ツッコミビリティが低い場では、従来出版物に課されてきたルールに準じたそれなりの制約があるべきである、ということです。