ピンポンダッシュ的言論

「批判するなら根拠を示せ」とか「反論には必ず答えよ」という主張は、時に物を言う場合に大きな負担になります。「自発的な行動原理としてそのような原則を持とう」という意味なら全く問題ないのですが、外から言論を制約するルールとして、これを一般的に認めることは、一部の人から言論の機会を奪うことにつながるおそれがあると思います。

特に在日に関する問題や、日韓関係のように、情報の流布に制限がある状況でそれを過度に主張すると、関係者と研究者以外は発言できなくなってしまいます。

例えば、私がイラク問題や道路公団について論じるのと、この二つの問題について論じるのでは、後者の方がとんでもない勘違いに基づいた発言をする可能性は高いです。それは、前者の問題は新聞やテレビで(偏向はあるにしても)編集された情報をいつも見ていて、(レベルは低くともそれなりに体系的な)基礎知識を持っているけど、後者の問題は日本にとっての重要性の割にはネットに依存する比率が高い。自分の専門のことならネットだけでも情報の質を判断して取捨選択できますが、専門外のことでネットだけに依存していると、バランスを欠いた理解になりがちです。

ツッコミビリティが低い場で、私のようなレベルの者が恣意的な思いこみで発言するのは問題です。特に、出版の場合にはそれが自動的に一定の影響力を持ちますから、事前にチェックを受けるべきです。しかし、それと同程度の制約をネットにおける発言に求める必要は無いと思います。まさに今回の私のように、事後的に批判を受けてから考えればいいと思います。

また批判に答えず、逃げるのも自由です。ピンポンダッシュのように「〜と言ってみるテスト」とか言って逃げたっていい。本人はそれに対する反応で何がしかの情報を得ることができるし、第三者はそのことで発言者の信憑性を判断できるわけですから。全ての批判に誠実に答えなくてはいけないとしたら、バランスを欠いた理解のままで発言することは難しくなります。

今日の最初に書いた「タブーにおける強者と弱者」という構図を想定すると、ピンポンダッシュ的言論は、一方で「強者への批判となるべきものが弱者に向かう」という危険性を持ちますが、タブーで抑圧されたものの反感を解消し、弱者と第三者の対話の第一歩となり得るものだと思います。

私にとっては、rysさんの証言がそういうものです。そういうことがあるという一般的な知識はありました。また、ネットの上のことですから100%そのまま信じるわけではありません。しかし、自分のブログという個別のつながりの中でそういう具体的な証言があったことは、私にとっては大きいことです。それは他の方法では得られない大事な財産です。

これは簡単には一般化できない難しい問題ですが、自分の理解が不十分だからと言って、沈黙したりP.C.的にお茶をにごしていたら、得られなかった財産です。rysさん(や同じ思いをした他の人)にはもうしわけないと思うし、反省はしますが後悔はしていません。

ですから、全く同じことはもうしないと思いますが、無責任に根拠なしに非論理的に思いつきで人を傷つけることを言うのは、これからもやめません。