『自由を考える』を考えるための例題

ミルコのファンが「ミルコって強いんだぞ。サップも一撃で倒しちゃったしヒーリングにも完封勝ちしたんだぞ」と言って、アンチミルコに「サップなんて格闘技の素人じゃん。ヒーリングもパワーだけで寝技の技術が無いし」とか言われたら、「いや、サップは何だかんだ言ってもホーストに二回勝ったし、ヒーリングも結構クレバーでパワーだけの奴じゃないよ」などと対戦相手を褒めることになる。

俺にとっての東浩紀は、このミルコファンにとってのサップやヒーリングのようなもので、「オープンソースって凄いんだぞ、東浩紀を一撃で倒しちゃったんだぞ」と自慢すると、「アズマって結局、文系の哲学バカで難しいことごちゃごちゃ言ってるだけじゃん」と言われてしまう。だから「そうじゃないんだアズマって実は結構強いんだぞ」ということをいろいろな言い方で言っている。

もうちょっと真面目に言えば、東浩紀の現状認識や危機感を共有しつつ、それを乗りこえるためのオープンソースの思想的な意味を明確にしたいのだ。

t e x t i l e c o c o o n: 『自由を考える』を考える(3)に、【非情報化圏】/【情報管理圏】/【情報公開圏】という三つの概念が提示されているが、これは素晴しい提案で、この問題に関してどういう立場の人にとってもこの概念で自分の考えを整理したり、主張したりするのに使えると思う。

例えば、高校入試問題が解けない教師みたいな教師が他にもたくさんいるんじゃないかと心配になると、教室にカメラを設置して授業の様子を見張ることを考える。現在、教室は【非情報化圏】にあるのだが、これを【情報管理圏】か【情報公開圏】に移すということだ。問題の教師のような低レベルの教師は誰が見たってすぐわかるから、誰かがいつでも授業をのぞけるようにしておけばすぐチェックできるだろう。そういうトンデモ教師に授業を受ける子供のことを考えれば、すぐにカメラを設置すべきだ。

それで問題は誰がこれを見るかと言うことで、カメラで監視するのが校長や文部省の人間だとしたら、教室を【情報管理圏】の範囲に含めることに相当する。もちろん一般には非公開で、保護者や他の教師から「あの先生はちょっと」という話が出たら、教育行政の内部の人間が授業を見て問題点をチェックする。

これでトンデモ教師の排除という基本的な目的は達することができるが、非公開で運用するとこれを悪用される可能性が出てくる。先生だって人間だから、虫のいどころが悪いこともある。毎日、毎時間監視していれば、何かひとつくらいは問題行動、問題発言が出てくる。特定の先生を狙いうちして、そういうタイミングを待って画像をキャプチャーしてクビにしてしまうことができる。

だから、監視画像は保護者に公開する方がいい。これが教室を【情報公開圏】に置くということだ。具体的には、監視カメラはインターネットに接続するが、VPN等の技術を使って特定の人しか見れなくする。そして、その鍵は保護者が申請した場合のみ与えることにする。そして、そのセキュリティのシステムや鍵の管理の方法を公開して監査可能な状態にしておく。

なんらかのクレームが出たら、保護者がみんなでチェックして本当に問題があるか確かめる。30人とか40人が自分の空き時間にちょっとずつ見て、それぞれの観点から判断するわけだ。そうすれば、特定の意図や目的によって判断を歪められる心配は少なくなる。

このように【非情報化圏】/【情報管理圏】/【情報公開圏】という三つの領域を対比して考えると、【情報公開圏】のメリットがはっきりしてくる。同時に【情報公開圏】の怖さのようなものも見えてくる。東浩紀は【情報管理圏】/【情報公開圏】を区別していないのではなく、一応区別した上で、前者はもちろん後者に対しても危機感を感じているような気がする。

【情報公開圏】に対する危機感は二種類あって、ひとつはそれが容易に【情報管理圏】に転じてしまうことだ。先の例ならば、保護者に公開された監視画像がさらに転送されて何らかの管理に使われるという可能性。これは「デジタルすかし」のような技術を使って解決できる問題だ。

もうひとつは、「匿名の自由」というあいまいな概念で示されているものだ。いくら読んでもなかなか明確にならない話なのだが、こちらの方が問題としては深刻だと思う。

この例で言えば「いつ何時でも親が子供の教室を覗けるというのは、正しいことなんだろうか?」という問いである。「なんだか気持ち悪いけどそれでトンデモ教師がいなくなるならしょーがないんじゃない」という答えになる。何が悪いのか言えないけど気持ち悪いのである。言えないのは言葉が足りないからだが、素人がそう言ってるのでなく、東浩紀大澤真幸のような国語力がスーパーハカー的な人が古今東西のテツガクをハッキングしまくってもみつからないのである。

その言葉がみつからない限りは【情報公開圏】が他の二つを飲みこんで増植していく傾向は不可避である。それを押しとどめる言葉や論理が無いことに東浩紀は危機感を持っているのだと思う。

「教室に監視カメラ」という個別の例題について、この問題を俺なりに考えてみるとこうなる。

よい先生は、教室の中に先生と生徒全員が参加する「場」を作る。それはその「場」にいる者が全員参加することで意味を持つようなひとつの空間だ。そこに参加できない子供が外部からその空間を見ているとしたら、先生はそれに気がついて何らかの対応をする。そういう視線に敏感であることが先生の資質のひとつになると思う。

親がカメラで覗くことで、先生は「外部」からの視線にさらされる。本能的にその視線に対応しようとする。しかし、対応しようにもそれはネットのはるか彼方だ。「外部」からの視線を遮断しないとやっていけなくなる。そのことが、先生と子供たちの関係に影響を与えることになるだろう。その場にいる子供の「外部」からの視線にも鈍感になってしまうかもしれない。【情報公開圏】はこのような実に微妙なかたちの暴力を持っている。

だから、親がその「場」の一員とならなくてはならない。監視するのでなく参加する必要がある。それは技術的に双方向のテレビ会議システムを設置して授業に口を出すということでなく、親がそのような暖い視線を持てるかどうかということが問われることになるのだ。つまり教室という空間を親を含んだコミュニティとして再創造することが必要なのだ。

【情報公開圏】にはコミュニティが必須であって、そのようなあり方の萌芽がオープンソースの中には生まれつつあると思う。