「わがまま」はグローバルな概念か?

ユニバーサル ミュージックのt.A.T.u.に関するお詫びと緊急のお知らせに次のような一節がある。


尚、当日キャンセルの状況は本番オープニング終了後、楽屋に戻った際、20時10分頃、マネージャーからメンバーに直接電話が入り、マネージャーとアーティストとの間で何らかの意思の相違が生じたと推測され、弊社スタッフの懸命の説得にも耳を貸さず、わがままにも本番中に現場から立ち去った状況です。

文中の「わがままにも」が妙に不釣合いに見える。「わがままにも」を削除しても、述べられている事実関係としては全く変わりがない。というか、この通りなら「わがまま」でなく契約違反と言って非難するのが筋ではないかと思う。明確に文書で詳細な契約をかわしてなくても、慣行として契約が成立していたと認められる状況ならば、テレビ局に落ち度がないのに出演をキャンセルするのは契約違反だ。「契約違反」というアピールならば、これは資本主義の国ならどこでも通じるグローバルな主張になる。

しかし、「わがまま」は日本的な共同体の内部でしか通用しない価値観に関する概念であって、外国人アーチストがそれに従うことを期待するのはおかしい。

事実関係はもちろん俺にはわからないが、公式の発表にこのような言葉が混じってしまう緊張感の無さが、根本原因のひとつであるのは間違いないと思う。

そもそも、共同体が無意識に持っている規範をひっくりかえすことで、何かを表現するのはアートの基本である。ロックはそのような意味での反逆的なアートの側面と、商売の側面を両面持っているものだ。だから、これで商売するということは爆弾を扱うようなもので、細心の注意とリスク管理が必須だと思う。20年くらい前には、ミュージシャンは多少なりともアーチストであったし、業界の方も危いものを扱ってるという認識とそれなりのノウハウがあったと思う。

最近のミュージシャンがいい子になりすぎて業界を甘やかしすぎているのではないか。