FUNと快楽は違う

休み中に「自由を考える」と「動物化する世界の中で」を読み終えた。ありえない仮定だがこれを20代で読んでいたら、俺の人生は少し違っていたと思う。俺は現代思想とか哲学はどうしても自分に関係ないものに思えてしまったのだが、この2冊は、まさに今自分が生きていて自分が見ているこの世界について書かれたものという実感がある。

でも、三点疑問がある。ちょうど俺が今興味のある3つのことが、東浩紀の語る「世界」から抜けおちている。

どれも、触れてはいるが本質を逃していると思う。なかでもオープンソースに関しては、本質的な自己矛盾を含む誤解をしている。残りの二つは後にして、ここから書く。

自由を考える」のP229でリナス・トーバルズの"Just for fun"に触れて、東浩紀は次のように言う。


これはかなり困った議論なんですね。
なるほど、ハッカーたちは、20時間、30時間続けてプログラムを書いているのが「楽しい」のかもしれない。
しかし、そもそもそのような状態を「楽しい」と感じること自体が問題なのではないか。
それは一種の薬物依存=アディクションなのではないか。

俺に言わせれば、現代思想の難しい本の方がよほど異常である。「存在論的、郵便的」という東浩紀のデビュー作から適当に引用すれば


裏返せば「散種」とは、超越論的歴史の純粋性と唯一性をたえず断絶させ複数化することで、
そこに条件法過去、つまり「三平方の定理」がピタゴラスにより発見されなかった正解の現実性を挿みこんでいく運動のことだと要約される。

「これが要約かよ!」思わず三村になってしまうが、こんな文章を何百ページも書き続けるのはアディクション以外の何者でもない。

これは売り言葉に書い言葉でなくて、本質的な批判である。東浩紀はこのチンプンカンプンから出発して「自由を考える」にたどりついた。その経路は俺には全くブラックボックスだが、「自由を考える」の意味は理解できる。それは無茶苦茶すごいと思う。

こういう人を俺はアディクションでなくハッカーと呼ぶ。哲学とはまさに言葉のハッキングであり、東浩紀の「存在論的、郵便的」の仲間うちからの高い評価は、まさにスーパーハッカーに対する尊敬と似たものがある。

哲学もプログラミングもやり方によっては、社会と切り離されたただの快楽であり、何も生み出さない自己満足の無限ループだ。しかし、たまにそこから素晴しい成果が生まれ世界を変えてしまうことがある。それが非常に困難で稀なことでも、そこを求めあがくことに意味を見い出したい、と他ならぬ東浩紀が言っている。


私たちを取り巻くこの脱思想化され脱文学化された21世紀の世界で、
20世紀の伝統を引き継ぐ「思想」や「文学」には果たして何らかの役割があるのか(中略)
僕の関心はいまでもそこにあります。(「動物化する世界の中で」P198)

これは往復書簡の相手の笠井潔氏にあてられた痛烈な批判の一部であって、この最もプリミティブな問題に笠井が真剣に答えないと東が怒っている。笠井だけでなく東以外の思想家は誰もこれについて真剣に考えずに、遊びとして言葉ゲームの哲学をしてきたわけで、それに東は怒っているのだし、俺はだから読むに値する哲学を見つけられなかったのだ。

それだけが哲学と言ってしまったら東浩紀は発見できないわけで、(実際俺はそう思っていたから見つけられてなかったわけで)同様にオープンソースアディクションと言ってしまったら重要な何かを見失う。大半のハッキングがアディクションであったとしても、その中から何か重要なものが生まれることもある。それが東浩紀とリナス・トーバルズの成果である。つまり、二人は鏡像のように同じ形の貢献を世界にしているのだ。

それが「自由を考える」であり「情報自由論」であり、Linuxであり「Just for fun」という言葉である。このような普通の人にとってブラックボックスのチンプンカンプンを含む成果を信頼できるのは、トーバルズが言う "Fun" という感覚につながる何かがあるからだ。ただのプログラムでなく、その中に隠れる"Fun"の感覚によって、俺たちはそれを見い出し、それを信頼し、それにつながる。

東浩紀は世界が「剥き出しの身体」と「データベース化したシンボル」に分裂してると言う。その観点と危機感には完全に同意するが、"Fun"はそのどちらにも属さない。少なくともその分裂をつなぐ何かの萌芽はそこにある。俺が東浩紀の中に見い出したものと同じ何かがそこにあるのだ。