子供と他者とITという異物に向き合う
「子供」は社会に変革をもたらし、最悪の場合、現在(あるいは将来)自分の占めている地位やそのバックボーンとなる価値観を転覆させるものとして、つまり既存の社会における「潜在的脅威」として認識されるべきなのだ。
これは、まさにその通りだと思うけど、このままでは激しく劇薬なので、別の話題とからめてちょっと薄めてみたい。
最初の「真髄を語る」は、ITというものが企業経営にとって制御不能な異物となっているという現状認識のもとに、その異物をどのように飲み込むかという提言。
結論を言えば、「ITベンダーは実装に責任を持て」「ユーザ企業はソリューションに責任を持て」「両者とも自分の領域においてプロであれ」というもので、悪く言えば、あくまで「実装」を異物として、「経営」の範疇から追い出そうという話。
現状認識はしっかりしているし方向性も現実的で日経コンピュータ的な言説の範疇では、確かに「真髄」に迫るものだと思う。
しかし、id:fromdusktildawnさんは、「経営」はさまざまなパーツからできていて、ITという特定のパーツを特別扱いするのがおかしいと言う。社員教育や組織のデザイン、マネジメントと同様、ITについても、経営者は最低「実装イメージ」を持つべきだと言う。
いままでやったことのない、新しいコンセプトのレストランで、新しい食材調達システムと、あたらしいサービス提供を実現するような、新しい店舗オペレーションを設計するときなんて、不確定要素だらけです。計画通りどころか、始めから、計画通りにいかないことを前提に、プロトタイプを作ってフィージビリティースタディーする工程を入れるなどを計画に盛り込むなんて、よくある話なのです。
にもかかわらず、コンピュータソフトウェアだけ別物だと考え、安易に計画通りに行くことを前提としてしまうから、話がおかしくなるのです。
戦闘力のインフレに手違いがあって、クリリンとフリーザ第4形態が対決してしまったようなものだ。
完膚無きまでに正論である上に、空理空論でもない。
id:wanwangorogoroさんのエントリによると、ベソスは他の会社のボトルネックとなりがちな工程に対して、アウトソーシングの受け口となることでそれを事業化しようとしているようだ。ひとの会社の事業プロセス全体をトータルに見てないとできない発想だから、当然、自分の会社の「実装イメージ」も明確に持っているだろう。「実装のプロ」に全面的におまかせして経営者を免責しようという発想の逆である。
「子供」は別に誰からか明確な教育を受けなくても、自ら世界を眺め、自分の状況を認識し、その選択肢の中で自分が「最適」だと思う選択をしている。
「自ら世界を眺め、自分の状況を認識し、その選択肢の中で自分が「最適」だと思う選択をしている」人は強力だと思う。
id:inumashさんが言っているのは、比喩ではなくて本物の「子供」の話だから、もっとラディカルなことである。でも、問題の構造は似ている。
「大人に教育を!!」という言説の本質は、「しっかりと自己防衛しましょう」ということなんじゃないかと僕は思う。新しい世代による懐疑の視点に対して、それを無視したり、一方的に「無価値」だと決めつけたりせず、受け止めた上で跳ね返し、あるいは一部を受け入れて、相手を懐柔できる柔軟なロジックとコミュニケーション能力、そしてそれを裏付ける経験を持つことが重要なのだ。
日経ビジネスは、それをしようとしているようだ。日経コンピュータにもそれができるかな。
そして、比喩としての「恐るべき子供たち」と対することは、比喩ではない本物の子供たちから自分を守る為の訓練になる。
「子供をどう扱うか」ということは、「他者とどう向き合うか」という問題と切り離せない。現在の社会において「自立する」ということは、「自らが拠って立つものを決め、それをもって他者と向き合う」ということであると思う。決して「価値を共有する」ということが前提なのではない。
学校を人的ネットワーク格付け機関として再生する
営利団体としての学校が、教育という商売のタネをはみ出そうとしたとき、その人その人が属しているネットワークの格付けと、ネット同士の相互作用の場の提供という2つの側面を打ち出してくると、面白いような気がする。
これは、数多くある「学校改革」のアイディアの中で、唯一現実的なものだと思う。
なぜかと言うと、他のアイディアは、子供を救うことはできるかもしれないが、先生を救うことはできないからだ。
学校が今の子供に役に立つ場に変容しても、学校の他にそういう場ができても、多くの先生はそこで働くことはできないだろう。もちろん、今、矛盾の中で苦しんで真摯に子供のことを悩んでいる先生には、いくらでも出番がある。でも、それはスーパーハッカーのように稀な存在で、熱意も能力も普通レベルの先生にはたぶん行き場がない。
失礼ながら、並の先生の持っているスキルで他の職業でも通用するものはあまり無いのではないか。
しかし、「その人が属しているネットワークの格付け」というのは、既に多くの先生が共通に持っているスキルであり、現状のままでも充分、競争優位を保てるものだ。
生活指導の先生とかは、そこしか見てないよね。そこしか見てないけど、そういう所はよく観察してるよね。
「人的ネットワーク格付け機関」を戦略目標とするなら、戦術として「受験を本人にやらせるのではなく、その子供の推薦人を試験で選抜する」というのも面白い。これは動員できるマイミクが多い人が有利な「mixi型選抜試験」ですね。科目ごとに別の推薦人に受験させられるようにしたらもっとよいと思う。
これでマイミクがたくさんいる人を選抜して、保護者にも子供にも校外に開いたコミュニティねずみ講をせっせとやらせる。名目は、総合学習でも部活動でも親睦会でもなんでもいいだろう。
先生方はそれを俯瞰して、校内にどのような人的ネットワークが資源としてあるか把握しておく。
それから、顧客からの依頼に応じて、適切なコミュニティまたはハブとなっている人間を紹介して、紹介料をもらう。地域ごとに「これこれのような人を探してください」という借り物競争のような依頼に答えてくれる機関があるのは、経済面でも文化面でも有用ではないだろうか。
同じように「相互作用の場の提供」という線でも、いろいろ展開できそうな気がする。
両方ともネットの中には競合するサービスがたくさんあるが、地域に密着していることと「生活指導の先生」的スキルを持った人がたくさんいることによって、充分対抗できるだろう。
「法」と「制度」について 〜 YouTubeを例題として
アンカテ(Uncategorizable Blog) - YouTubeと小泉郵政改革の共通点は「合意形成プロセスの再起動」の続きのメモ。
阿部謹也さんが言っていたけど、ヨーロッパでも中世のある時点まで、お話の中の登場人物には自由意思がなかった。たとえば、誰かが殺されて親族が仇討ちする時、共同体の意思(ルール、しきたり)がそのまま個人の意思であって、それは、共同体の意思と個人の意思が一致しているというより、個人の意思が存在してなくて、個人は共同体の細胞みたいなものであったと。
その状態では、個人=市民は存在してなくて、個人=市民と社会=共同体の葛藤も存在してなくて、両者を隔てる壁もなければ、両者を調停する法律も不要である。だから、国家というのは、その時には存在していない。
個人=市民という意識が発生してはじめて、個人=市民 VS 社会=共同体の葛藤が発生して、それを調停する機関として国家が要請される。
国家の機能は一つには、社会から個人=市民を守ること。というか、個人=市民は国家がなければ社会に抹殺されかねない。その個人=市民というのは、むしろ、国家と共時的に発生しているとしかいえない。
finalventさんが言っていることを、そのように理解していいのかもうひとつ自信がないが、そういうものだとすると、
法は、いろいろあるにせよ、究極的には、国家を縛るためのものとしてある。なぜかというと市民から貸借された権力だからだということになるのだが、それはさておき、市民=国民への正義の利得性の標識になるからだろう。
つまり、法によって国家は正義の代理たりえているというわけだ。
ここから必然的に法と権力=国家を巡って、立法、司法、政府(行政府)=国家=権力、という制度が必然的にできてくる。
「法」というものは、「立法、司法、政府(行政府)=国家=権力、という制度」の上位にあるということになると思う。
「国家」や「制度」というものは、普通、それが継続的に運用されている文脈の中で語られる。法律は変え得るとしても、変える方法は別の法律の枠内で規定されている。だから、法律の変更に関わるのは「制度」という下っぱであって、上位にあるはずの「法」はそこにタッチしてない。
「法(=一般意思)」が「制度」を産む瞬間、つまり「国家」の起源のようなものは、神話的に語られるだけで、日常の法律運用とは別の世界のこととされる。
「法」が「制度」を産む瞬間というのは、簡単には見物できなくて、見物できるとしたら普通身の危険があるというか、傍観が許されないようなのっぴきならない歴史的事件に立ち会うという状況である。つまり、「法」は「制度」の上位にあるが、「法」を直接見ることはほとんどできない。
YouTubeとかiTMSとかWinnyとかを通して、何か他ではめったに見られない非常に珍しいものを見ているように思うのだけど、それが「法」が「制度」を産む瞬間ということではないだろうか。
そして、革命について (ちくま学芸文庫)で、アレントは、やたら「はじまり」とか「創設」にこだわっていたけど、それはこういう感覚ではないだろうか。
もちろん、命の危険なく安全にそういうものを目撃できるのは、我々が安定した制度に守られていることを示している。
だけど、YouTubeがコンテンツ供給者とユーザの間にWin-Winの関係を作り、動画のフリー配信が自由な世界を作ることに成功したら、それは、単に制度の中で法律が変更されたということとはちょっと違うと思う。ある制度が継続して運用されている上で、別のレベルで「法(=一般意思)」が「制度」を産んでいるということになる。