ロングテールとは「薄利多売から超薄利無数売」という変化である

これはロングテールを一般人に説明する為の方法の案です。

ロングテールとはひとことで言うと「薄利多売から超薄利無数売」という変化です。

「薄利多売」というのは、今では常識になっていますが、ビジネスの方法論としてひとつ前の時代から見ると大きな革命だったと思います。商売人は誰でも、いかに安く仕入れていかに高く売りつけるかをいつも考えています。そういう中で「薄利多売」、つまり、「意図的に安く売る」という方法論は、従来の常識をくつがえす改革だったはずです。

これが可能だったのは、「大量生産」が可能となるテクノロジーが背景にあったからです。少数の品数に絞りこみ、生産、流通のシステムをその商品向けに徹底して合理化した上で、その商品を大量に販売すれば、安く売っても全体としては儲かるということです。20世紀の産業は、ありとあらゆるジャンルに「薄利多売」という方法論が浸透して、そのシステムで可能なものは全部それで埋めつくされた時代と言えるでしょう。

ロングテールもある意味では「薄利多売」です。ただし「薄利」の意味も「多売」の意味も違っています。

まずロングテールにおける「薄利」は利益率ではなくて、「売れる見込み」です。従来の「薄利多売」は、ひとつのアイテムを多数に売ることが前提ですから、商品に「売れる見込み」があることは絶対に譲れないキーファクターです。しかし、ロングテールは「売れる見込み」がほとんどない商品を扱います。ひとつ売れた時の商品単位の利益率は高いかもしれませんが、「売れる見込み」がないものを扱うという意味で「超薄利」な商売なのです。

そして「多売」は、ひとつのアイテムを多数売ることではなくて、たくさんのアイテムを並べて、そのうちごくわずかが売れるということです。「売れる見込み」がないものを売るわけですから、ものすごくたくさんのアイテムを並べる必要があります。「多売」では足らなくて「無数売」が必要なのです。

たとえば、アマゾンという会社では(以下略)。またグーグルはアドセンスという広告の手法を開発しましたが、これは(以下略)

Webというのは、そういう意味では「超薄利無数売」という商売を可能にするテクノロジーです。鉄道や産業革命が「大量生産、大量販売」を可能にしたように、Webが「無数売」を可能にします。つまり潜在的に無限大の売れる見込みのないアイテムを並べて展示することが可能になるのです。20世紀の革命によって「薄利多売」が可能な市場は徹底的に掘り尽くされてしまいましたが、まだ未開拓の市場がたくさん「超薄利無数売」の中に残っているのです。

相手の長所を自分のロジックの中でまず肯定する

前のロングテールのエントリーで用いたロジックを、説得の為の方法論として一般化すると

  1. 対立する相手の概念の長所を、自分のロジックの中で、一般化した上で肯定する
  2. それに同意を得る
  3. 同じ一般化したロジックに乗って、自分の論点を主張する
  4. 反論があったらそれを反射して相手の長所を批判する形にして、それを無効化する

つまり、相手が同意するであろう「薄利多売」を、商売の世界でのひとつの「革命」であるとして、それを肯定する。ここで「薄利多売」の長所をきちんと説明できないといけない。それができていれば、相手はそのロジックを受けいれざるを得ない。

ここは、前段なのだけど、ここで「薄利多売」の意味を説得力あるやり方で説明できなければ、次のステップへ行けない。それがポイントである。

もし、それがちゃんとできたら、同じ「革命」がもうひとつ起きているとしてロングテールという現象を説明する。そうすると、ロングテールに対する反論は、「革命」という一般化、「薄利多売」という一般化を通して、「大量生産、大量消費」というすでに起こっていて相手も肯定している現象に対して「あり得ない」と言う主張と同等になる。

たとえば、「売れない商品をいくら集めてもたいした利益にはならない」と言われたら、「ヘンリーフォードも『庶民向けの安い自動車』についてそう言われたでしょうね。ダイエーの中西さんもそうだったでしょうね。数が極端に変化した状態を想像するのは難しいんですよ」と反論すればよい。

そうすると、論点が次のポイントに移らざるを得ない。つまり、産業革命が「薄利多売」を可能としたような意味で、Webは本当に「超薄利無数売」を可能にするかという話である。ここまで来ればこっちのもので、少なくとも、その人をWebに対して真剣に目を向けさせることには成功したわけである。

アーレントとマックスヴェーバーがもし1973年生まれだったら?

アーレントとマックスヴェーバーがもし1973年生まれだったら、間違いなく「ウェブ進化論--本当の大変化はこれから始まる」の書評をブログに書いていただろう。この二人は「グーグル以降」の世界について、グーグルよりはる前に研究していた人である。

マックスヴェーバーは、「我々が巻きこまれているシステムについて客観的に語るにはどうしたらいいか」というテーマを研究した人である。その考察から生まれた教訓のひとつは、「認識論」と「価値論」の分離である。

つまり、「そのシステムがどのように作動するか?」という問いをいくら精緻化しても、「それを我々が選択すべきか否か?」という問いの答にはならないということである。

「グーグル以降の世界がどのように変化するか?」という問いは、「それを我々が選択すべきか否か?」にはつながらない。間違ってつなげてしまったら、新しいマルクス主義になってしまう。「おまえがいくらグズグズ言っても、世界はもう既に決定的にこちらへ向かって動いてるんだから、覚悟を決めて、40秒で支度しな!」ということだ。その背後に精緻な認識論があるので、こういう物言いがすごく説得力を持ってしまうのだ。

ウェブ進化論」は精緻な認識論である。「グーグル以降の世界がどのように変化するか?」という問いに見事に答えている。難を言えば、そこに不用意に価値論が紛れこんでいる。そのことが読者を選択してしまうかもしれない。しかし、紛れこんではいるけど混在はされていないので、認識論を抜き出して読みとるよう努力すれば、本来は、これはずっと幅広い読者にとって価値のある本である。

マックスヴェーバーがもし1973年生まれだったら、そのように読者をガイドする書評をブログに書いていただろう。

アーレントは「人間がシェアできるものとは何か?」を徹底して研究した人である。その考察から生まれた教訓のひとつは、「公的領域」と「私的領域」の分離である。

つまり、「シェアできる物事の領域」と「シェアできない物事の領域」は、意図的に決然と分離しなければいけない。言論や芸術は世界に向けて公開し、シェアすることに意味がある領域で、セックスや愛はシェアしたくでもできなくて無理してシェアすると物事がおかしな方向に向いてしまう、そういう領域である。

グーグル以降の世界では、「シェアできる物事の領域」とその価値が極端に増大する。そして、アーレントが最も多く批判された「ビジネスは公的領域に属するのか?」という問いが、避けようもなくつきつけられてくる時代である。全ての善が公開されてシェアされてマッシュアップされて価値を生むというのは、ビジネスの究極の姿である。テクノロジーが公平さと多様性を担保する。この本に書いてあるように、「世界政府に必要なシステムを開発することが、グーグルに与えられたミッションだ」と素で創業者のラリー・ペイジは言う。

「心の中にあるものをシェアする」ということの意味と怖さを一生かけて考えたのがアーレントである。「シェアする」ということを20世紀には抽象的に哲学的に語るしか方法が無かったのだが、21世紀にはWeb2.0があって、シェアするということの意味がブラウザーの中にどんどん立ち表われてくる。

アーレントがもし1973年生まれだったら、ラリー・ペイジが「世界政府」と本気で言うのではなく、素でそう言ってしまうことの怖さを、誰より理解するだろう。「公開されてシェアできる世界政府」の批判をするとテクノロジーで反論される。その機能を実装されてしまうのだ。スペックに変換できない批判ができるのはおそらくアーレントだけだ。

アーレントがもし1973年生まれだったら、「ウェブ進化論」の描く「グーグル以降の世界」の意味を最も的確に解説する書評をブログに書いていただろう。

ところで、日本では、1973年生まれは打ちのめされた世代だそうだ。同じ年に生まれたラリー・ペイジはずいぶんノビノビやってるじゃないか日米はこうも違うのかと思っていたら、グーグルの株主の構成が特殊な手法になっていて創業者二人に絶対権限があって乗っ取りができないようになっているという話が「ウェブ進化論」にやや批判的に書かれていて、ああやはり海の向こうでも1973年生まれは Beaten Generation なんだろうと思った。ラリー・ペイジは叩かれることに備えている。ただ、備え方に無邪気で変に確信的な所があって、そういう妙な方法で自分を信頼してしまう所はホリエモンにそっくりだと思う。

確かに、この世代は、何かの皺寄せを受けているような気がする。だから、アーレントとマックスヴェーバーの21世紀バージョンを夢想するなら、当然のように、二人は1973年生まれになるのであった。

トランザクションがないのに金になるシステム

ライブドアの技術の話へのYamatoさんのコメント

我々はライブドアのポータル以上のシステムをいくつも見ることが出来ます。電話の交換機、気象予報システム、大企業のERPシステム、コンビニのPOS等、ライブドアが素人の集団では無い事に間違いはないでしょうが取り立てて技術が素晴らしいというレベルでもないと思います。
(中略)
そう、システムの負荷限界を超えれば落ちるのは常識それはライブドアのサイトも同じ
ただ、ライブドアのサイトはその負荷限界の設定値がその規模に対して高かったとそれだけにすぎません。

otsuneさんのコメント

「テレビでガンガン放映されているのに、あの手のポータルをアクセス不能にしないこと」ってのがどれだけ困難で、金だけではない技術が必要だ。ってのは、大規模Apacheサイト運営についてを見聞きした技術者には自明の話なのだけど。それがこのコメント欄に代表されるような「たんにコストをかけすぎてサーバー台数が多いだけじゃないの?」というピントはずれな印象をもたれてしまうってのがポイントなんだなぁと思いました。

ライブドアの話としては、otsuneさんに同意しますが、Yamatoさんが見落しているのは、「Webの世界では『負荷限界』の設定ができない」ということだと思います。表向きはあったとしても、いざ何か起きた場合に「要件を超えたので知りません」とは言えないことが本音であるという世界ですよね。

つまり、端末の数が固定であれば、「あり得る最大の負荷」を要件に含めることができます。Yamatoさんが例にあげているシステムは、どれもその限界を設定した上で、信頼性や確実性(トランザクション処理)の点で非常に厳しい要件を求められるシステムです。これらを、「要件に負荷限界を設定されているWebシステム」と比較するならば、従来の業務システムの方がずっと高度な技術が必要であるということになります。

特に、Webの人が見落しがちなのは、業務システムにおいては確実なトランザクション処理が必要であるということです。データベースを更新するのに、どういうトラブルが起きても、整合性を保たなくてはいけないという要件が入ると、単純なIOも数倍になるし、ロックが集中することでレスポンスに問題が出るパターンもいろいろ発生してきます。Webのサービスでは、特殊なケースにまでそれを求められるケースはありません。

たとえば、ブログのエントリーがしょっちゅう紛失したらどんなユーザも怒りますけど、「DISKの突発的なハードエラーが三件連続して起きた時に、消失するエントリーが数件発生する可能性がある」なんてことなら、パフォーマンスと引き換えで充分認められる問題です。しかし、銀行の勘定処理では、大地震で東京が壊滅しても、たった一つの例外もなく送金の処理が、済なのかそうでないのか確定しなくてはなりません。送金元で1000円引き落とされているのに、送金先にはその1000円が入ってないってことは、許されないわけです。地理的に分散している複数のサーバに、それをリアルタイムで例外なく記録するというのは、とてつもなく高度な処理です。

だから、「事前の負荷限界」がある世界とそうでない世界には、それぞれ違う種類の高度な技術があるということだと思います。

ただ、(ここからまた「Web進化論」関連の話に無理矢理持ちこむわけですが)、従来の常識では、「負荷限界のある」システムは金になるシステムであり、それの無い(=トランザクションの無い)システムは金にならないシステムでした。業務のデータはクローズされた世界で発生するし、「一件や二件はまあいいか」ということはほとんどあり得ません。だから、純粋に技術的に見て高度かそうでないかという観点では、どちらも同等ですが、「どちらが金になるか」という点では、明らかに上下関係がありました。「負荷限界」のある中で高度なことをやる方が、金になる技術だったんです。

その力学をグーグルが変えてしまったんですね。

グーグルは、「トランザクションがない代わりに負荷限界もない」という、従来の常識では、絶対に金にならない領域の技術を高度化することで大儲けしたんです。

ライブドアは、グーグルのように、「負荷限界の無い系技術」を積極的な攻撃の道具とはしてませんが、ライブドアの商売の中に「突発的な急拡大」という要件は、いろいろな文脈で重要な位置を占めていたと思います。そういう意味では、ライブドアの高度な「負荷限界の無い系技術」は事業の基盤であったという見方は間違ってないと私は思います。

それと、「負荷限界の無い系技術」が金になるということが、私も含めて「負荷限界有る系技術」にプライドを持つ従来型の技術者が抵抗を感じる所で、この議論が擦れ違うポイントはそこではないかと。だから、まあ結論は「Web進化論」しっかり嫁ということなんですが。