炎上 = 暴徒 + 集団知

「一般国民」という言葉は、エンブレム取り下げ会見の数時間後には、自然発生的にtwitter のトレンドワードになってました。問題点を「上級国民 VS. 一般国民」という形で集約させたのは、素晴しい集団知だと思います。

「今は、どんなジャンルでもRemix主体の表現活動が広まっていて、佐野氏がそういう手法を積極的に用いること自体には問題はないと思う。ただ、それは旧来の著作権管理のシステムとは緊張関係にあることは意識すべきで、商業デザインであれば、素材の権利処理には細心の注意を払うのが当然である。それができてないデザイナーを選んでしまった選考プロセスには大きな問題があり、撤回にあたって、ここに反省や具体的な改善点を示せなかった組織委員会の会見には疑問が残る。透明性やアカウンタビリティを向上させようという姿勢が全く見られない。問題となった写真が内部資料であるという弁解があって確かに社内向け資料の段階では許容される範囲であるかもしれないがが、これは、応募者である佐野氏にとって、審査委員会が最初から内輪であるという認識が、組織委員会にも共有されていたことを示しているのではないか。そのサークル内の決定が外から覆されたことの無念さが『一般国民には理解されなかった』という言い方にあらわれている」

と私は思いますが、こんなふうにゴチャゴチャ言うより「オリンピックは上級国民が上級国民のためにやるもので、一般国民はおとなしく養分になっていればいい」みたいな言い方の方がわかりやすいですね。

今後、「上級国民」というキーワードに注目して2ちゃんねるを見ていれば、今の日本の国家システムの行きづまりや、うっせきしたルサンチマンがよく見えてくるのではないでしょうか。

炎上には、暴徒という側面と集団知という側面があって、どちらにも目をつぶるべきではないと思います。

デザイナーの方は、暴徒が、文脈を考慮しない一方的なコピペ批判に押し寄せて仕事に支障をきたすことを懸念されているようですが、そういう時こそ「クリエイティブ・コモンズ」の活用をはかるべきだと思います。「俺は、クリエイティブ・コモンズの素材しか使ってない」と言えば暴徒が来ても安心してRemixできます。

たとえば、低解像度の写真はCCで、高解像度の写真は有償ライセンスみたいなやり方が一般的になれば、「自由な表現」と「厳密な権利処理」の両立も可能になるわけで、むしろ業界が主導してそういう体制を作るべきではないでしょうか。

CCは、オープンソースソフトウエアのライセンスをヒントにして生まれたのだと思いますが、ソフトウエアの世界でも、OSのような限られた専門家が作るべき高度なソフトの分野に素人集団が暴走して押しよせてきた時に、「市場が破壊されて大変なことになる」と心配した人がたくさんいました。

でも、暴徒の群れの中から、ライセンスが整備され、githubのような広く共有される基盤が育ったことで、Remix的プログラミングは進化し、個人の独創性を抑制するのではなくむしろ促進するようになっていて、共有されるべきものと商用でクローズドで開発されるもの双方の利益になっていると思います。

ただ、こうなるまでには、数限りない衝突、葛藤、論争があって、まきぞえでつぶれた会社も大小たくさんあります。「暴徒に荒らされる」という懸念が間違っていたとも言えません。

炎上という現象は、見る人によって全く違うものに見えてしまうもので、暴徒しか見えない人もいれば、集団知しか見えない人もいます。でも「専門家集団 VS. 一般国民」という対立が起きた時には、一般国民の側に集団知を見てその流れにのってWin-Winな解を構築していく専門家が数多くいるものです。


一日一チベットリンクチベットNOW@ルンタ:<速報>新たにアムド、サンチュで女性が焼身・死亡 内地143人目

文教族が専門知を評価しないで利権を失うの巻

オリンピックのエンブレム問題も競技場問題も、関係者が何か喋るたびに炎上している。どちらも根本は文教族の利権だろうが、不思議なことは、利権の中の人たちが危機管理の専門家を呼ばないことだ。

危機管理の専門家と知財の権利処理の専門家と、あとできれば、ネットの炎上に詳しい人、3人専門家を呼んで対策チームを作って、収拾のストーリーをまとめて、関係者に注意点をレクチャーしておけば、こんなことにはならないだろう。

協賛してみかじめ料を払わされている一流企業はたくさんいて、その多くは、そういうジャンルの専門家を抱えているだろう。予算はたくさんあってコネもあるのだから、作る気があれば簡単にエキスパートチームを作れるはずだ。

なぜそうしないのか、ここからは完全な想像なのだが、利権の人は専門家や彼らが持つ知の体系を軽視しているか嫌いなのか、その両方なのではないかと思う。なぜなら、体系化された知は人と人のつながりの上に立とうとするからだ。そこに彼らの生き方と対立するものを感じて、本能的な反感を持ってしまうのではないだろうか。

利権という生き方もひとつの哲学であり世界観である。人というものはしょせん損得や力関係で動くものだ、ということを信じている。おそらく彼らの観測範囲の中では、それは絶対的な真理なのだろう。しかし、なんの分野であれ、エキスパートという人は、その真理より、彼らの専門分野において、多くの人によって体系化された知の方が上に立つと信じている。そこに相性の悪さがあるのではないだろうか。

そして、実は利権に生きる人は、純粋な損得や力関係で生きているのではなくて、「人がそれのみで生きるものだ」という真理を信仰しているのである。だから、損得を度外視してその真理に殉じてしまうのだ。

知を軽視する人たちが「文教」族と呼ばれるのも皮肉なことだけど、彼らが自分たちの利権について真剣に考えるなら、自分たちの哲学は一度棚上げにして、専門家に頼った方がいいと思う。


一日一チベットリンクダライ・ラマ「私は今もマルクス主義者」

Apple Music を 200kbps 回線で試してみた

Apple Music をいろいろ試してみたので、感想をちょっと書いてみます。

良かったことの第一は、MVNO ( OCN モバイル ONE ) でも聞けたこと。Turbo OFF にして2、3日いろいろなシチュエーションで聞いてみましたが、一応、聞くことができました。外出前に「オフラインで再生可能にする」をしてキャッシュしておけば、回線と関係なく聞けますが、キャッシュなしでも聞けるということは外出中に急に「あれが聞きたい」と思った時にすぐに聞ける。これは画期的。

「一応」というのは、スムーズに聞ける時は30分でも一時間でも聞けるのですが、たまに調子が悪いとブツブツ切れてまともに聞けなくなります。この状態になったら、早送りを押さないとほぼ復旧しません。早送りを何回か押せばたいてい元に戻りますが、ダメな時はダメですね。

確証はないですが、モバイル回線の状況とも関係ないように見えます。

おそらく、iPhone アプリの中に回線の状態に合わせて、低いビットレートのストリームを選択する機能があって、これがうまく働かないでたまに高品質の音源を選択してしまっているのだと思います。曲の途中で切り替える機能はなくて、早送りをするとその選択が再度働いて直るようです。200kbps で安定して鳴っている時は、低ビットレートを選択しているのでしょう。

もうひとつは、"For You" というレコメンデーションの機能。これは使っているうちにだんだん精度が上がってきて、ちょっと気になってるけどまだ聞いてないみたいなアーチストが出てくるようになってきます。

それと「おすすめ」するものがアルバムだけでなく人が作ったプレイリストになってることもいい。

プレイリストの中にはよく知っている曲と知らない曲が混ざっていて、適度な驚きがあります。それをすぐその場で聞けるわけで、これが数時間?おきに更新されるので、とうぶん楽しめそう。今は、アップルが用意したものが中心ですが、ここにユーザの作ったアクの強いリストとかが出てくるようになったら相当楽しいと思います。

ただ、おかしいこともたくさんあって、一番ひどかったのが、プレイリストに大量の曲を追加していったら、途中でおかしくなったこと。

自分の好きなアーチストを検索して、アルバム単位でどんどん追加していった所、1000曲を超えたくらいから、iPhoneが熱くなってきました。「なんか変だな」と思いながら続けて、翌朝、これをシャッフル再生してみると、なぜか同じ曲が何度もかかる。おかしいなと思って、MaciTunesで選曲を見直していたら、同じ曲が30回くらい登録されている曲が数曲ありました。これを削除して、iPhoneで見直してみると、iTunesで見るのと曲の数が違う。

そこから、iPhoneMacが同期しなくなり、名前が同じ別のリストになってしまいました。iPhoneの方は、160曲くらいに減っていて、後から追加した曲しか入っていません。

一晩待ってから、サインアウトしたり再起動したりいろいろやりましたが、どうしてもリストが不一致の状態は変わりません。しかたないので、Mac上で別の新しく作ったリストにコピーしました。

これは、今の所同期していますが、やはり曲数は減っています。追加したはずなのに入ってない曲がある。一度は入ったものが、iTunes上で重複した曲を削除した後に消えたような気がします。1500曲以上になっていたはずなのに、800曲くらいに減っていて、その間に重複した曲を数十曲消していますが500曲も消してないのは確かです。

私は、こういうバグのあるソフトをだましだまし使うのは得意だと自分で思っていましたが、ここまで再現パターンやトリガーが想像できない変なバグは初めてです。おてあげです。

iTunes Match もひどかったけど、Apple Music の iCloud プレイリストには、それ以上のひどいバグがあるように見えますね。

今も、これを書きながら、その問題のプレイリストを再生していたら、何度もアプリがフリーズして、iPhoneを再起動しました。

まあ、普通に検索して、見つかった曲やアルバムをそのまま聞いていれば、使えます。私は、ジャンルがバラバラの音楽を大量に一つのリストに登録してシャッフルして聞くのが好きという変態な使い方をするので、そういう通常と違うユースケースで使う人は、ひどい目にあうのだと思います。

ちょっとその落差が激しくて、このサービスそのものは、おすすめしていいものか迷います。ただ、ストリーミングという体験は、やはり音楽の楽しみを大幅に拡大することは間違いないですね。気軽に聞いているものをシェアできるというのはいいと思います。

私も、ひとつ、プレイリストを作ってみました。

Weather Reportの曲から、ちょっと軽めでギターやボーカルをフィーチャーした曲を集めたものです。最初見た時、Weather Report は全部あると思いましたが、このリストを作っている時に、なぜか、8:30だけ抜けていることに気がつきました。曲のある無しも、アーチストごとに千差万別で簡単に「こういう状況です」と言いにくい。

ドロドロなIT

ちょっと前まで、グーグル対アップルの戦いはオープン対クローズの戦いだった。それが、最近は、Androidのオープン性が怪しくなる一方、アップルは ResearchKit なるものを出したりして、そんなに単純には割り切れなくなってきた。

ネットやモバイルデバイスが我々の生活に浸透するにつれて、両者の戦略はともに複雑化していく。当然のことで、世の中との接点が広がる以上、もし世の中とのつながりを保とうと思うなら、複雑化するしかない。

それに対して、政治は、特に日本の政治は最近なんだか単純化しているような気がする。政治というか政治を巡る言説というか。

多国籍企業が世界政府になるというのは、強権や陰謀的なやり方によってそうなるのでなくて、だんだんと自然に政府が自滅的に権威を失墜していくということなのだと思う。

政治とはドロドロしたものでとよく言われるけど、それは汚職のことではなくて複雑な意思決定のプロセスのことなのではないだろうか。

ネットの巨大企業が何を巡って競争しているかというと、それは「決断の総量」の大きい方が勝つという競争で、たとえば「ResarchKitをオープンソースにする」という意思決定の前後には、ものすごい量の意思決定がある。

誰か一人の命令でみんなが一丸となって動くなら、何千人の人が関わっていようとも「決断の総量」は少ない。そういう企業は生き残っていけない。たくさんの人が自主的に動いていても、それぞれの決断がぶつかって打ち消したりするリスクがない所での意思決定だったら、それはぶつからないような枠組みを事前に決めた人だけが本当の決断をしたということで、やはり「決断の総量」は多くない。

昔の自民党一党独裁と呼ばれたが、党の内外でぶつかりあう意見を政策に反映させていく意思決定が何レベルもあって、そこにはいろいろな要素が反映された複雑なプロセスがあった。

今、それと似たようなことをやっているのが、アップルとグーグルだと思う。つまり感覚器から脳まで有機的につながっていて、自身の複雑さの中に外界の複雑さを反映させて環境に適応している。小さな個別の事象の認識と大きな意思決定の間に連続性がある。だから、より多くの人が政治に参加しているという実感を持つことができたのだ。

iPhone を買うか Android を買うか選ぶことは、個人的な利害調整であると同時に、何か大きなプロセスに自分も参加しているという実感があるのではないだろうか。だから、iOSのシェアが上がったり下がったりした時に、自分のことのように喜んだり怒ったりする人がたくさんいる。

今と昔で違うのは、「コードを書く」という形の意思決定をしている人がたくさんいることだ。日本のIT企業がパッとしないのはコードを書く人は本当の意思決定をないことになっているからだ。コードを書くというのは設計作業で、リスクのある決断をする人がたくさんいないと全体として意味のあるシステムができない。しかも、コードというのは社員が書いたクローズなソースても組織の外部にあって、絶対に書いたとおりにしか動かない。コンピュータを使うということは、巨大で硬質な外部性を組織の内部に抱えこむということで、これに励むことによって、組織の筋肉が鍛えられるのだと思う。

プログラマが意思決定をしない人だと思っていると、そのプロセスはなかなか見えてこないが、その外部性とうまく共存できる会社は自然と外界の複雑性に対する適応力を持つことができる。ネットではその優劣を高度なレベルで競いあっていて、今頂点に立っているのがアップルやグーグルやフェースブックやアマゾンだが、次を狙う会社も無数にある。

これらが全体としてやっていることは、これから限りなく政治と呼ばれているものに近づいていくだろう。


一日一チベットリンクダライラマをめぐる中国の被害妄想と米国のジレンマ  WEDGE Infinity(ウェッジ)

この人も「複雑な意思決定」を体現したような人ですね。

シンギュラリティとはジョンとポールが同じ町に生まれる必要がなくなること

どうしてあの二人が同じ時代に同じ町に生まれるという奇跡が起きたのか、という問いは間違った問い掛けで、実は潜在的に二人が出会えば途方もないことをしでかすペアは他にもいっぱいいたと考えるべきだろう。つまり、20世紀には相方と出会うことがないまま普通の人のまま一生を終えたジョンとポールがたくさんいたのだ。

私はAIには一貫して懐疑的なのだが、それでもビッグデータとAIの組合せはブレークスルーを産むということには同意する。量が質に転換する瞬間というものはあって、量が今爆発しているからだ。ただ、それでとんでもないものが出来たら、それを遊びに使えばいいと思う。というかきっとそうなる。

想像を絶するような賢い人工知能を遊びに使えば、想像を絶するような面白いことができるだろう。

それと、ビッグデータ+AIが効果的に働く領域としては、人と人のマッチングがあると思う。

たとえば、バンドメンバー募集する時に、楽器の腕前が同じくらいで好きなジャンルが似てる人を探す、みたいな就活サイトみたいな探し方ではなくて、「こいつとこいつが出会ったら世界がひっくりかえってしまうようなビートルズみたいな組み合せを見つけてみろ」と、その人工知能に命令してみたい。

ジョンとポールが同じ町に生まれなくてもビートルズを結成できるようになったら、人間の可能性が飛躍的に広がり、人類全体の創造性のリミッターがはずれる。我々が今知ってる過去の偉人というのは、実はみんな途方もない運の強さでその奇跡を呼び寄せることができた例外的な人で、そこでスクリーニングされて偉人になりそこねた人たちが、ある日を境にみんな偉人としての可能性を開花させるのだ。

出会うべき相方に、メンターに、恋人に、ファンやスポンサーに、出会うべき時に出会えるようになる。そのための計算を人類全体にしてもまだ計算パワーが余ってしまう日。偉人の発生率が爆発的に高くなる日。それが本当のシンギュラリティだと思う。これには、学習による正のフィードバックループがかかるので、シンギュラリティの日に生まれる偉人は過去の人類の歴史を通した偉人の人数と同じで、その次の日からは、毎日それ以上の人数の偉人を見つけ続けるのだ。

それで、偉人の雇用創出効果もはかり知れないものがあるので、中長期的には仕事がなくなる心配もしなくていいと思う。短期的にはすごいアンバランスが起こっていろいろ大変かもしれないけれど。

(余談)

ジョンとポールが同じリバプールに生まれたとみたいなことを指す言葉として、accidental locality という言葉はどうでしょうか? 使用例: 「SEKAI NO OWARI は accidental locality に依存して結成された最後のバンドである」

きのこ帝国、他

最近知ったけど、きのこ帝国っていいですね。

これだけでは何なので、ついでに最近よく聞いてる曲をいくつか紹介します。(ジャンルも新旧もめちゃくちゃ)



"A Man Needs A Maid" by Dala





"Misiya" by Etienne Mbappe



10000人対1人のウォーリーを探せ

「小学4年生」でないことを証明していくツイッターの集合知が凄い - さまざまなめりっと という記事を読んでいて、自分が昔書いた記事を思い出した。

ネットの中で何かをするということは,ある意味で負けることが決まっている勝負に挑むようなものです。(中略) それは,1万人対1人で「ウォーリーを探せ」をやるようなものです。 ある主張の中の論理の穴や,あるメッセージの中に含まれた誤解の可能性がウォーリーだとしましょう。書く側,発信する側は一人きりでその穴を探して埋めていくわけですが,読む側,受け取る側は何千人,何万人といて,そのうち誰かは先にウォーリーを見つけてしまうわけです。

ネットが万能だとは思わないが、問題の形によっては、すごい力を発揮する。上の記事に引用されたツィートを見ていると、フォントとか妖怪ウォッチとか、世の中には自分には思いもよらないことに着目する人がいるものだと感心してしまう。

指摘している人にとっては、日常的、常識的な疑問だと思うが、そのジャンルになじみがない人にとっては、「えっ、そんなことを気にするの?」とびっくりしてしまうことだ。

そのサイトそのものは見てないが、おそらく誰が見ても「これが小4?」と思うようなものだったのだろう。だから、このサイトに投げかけられた疑問は引用されたもの以外にもたくさんあって、そのうちのわずかなものがたまたま正解にたどりついたということだろう。

10000人と「ウォーリーを探せ」で対決したら、10000人のうち9990人はウォーリーがいない所を探してしまうのかもしれないが、10人くらいはすぐにウォーリーを見つけてしまう。

ここから得るべき教訓は「偽装サイトを立ちあげる時は使うレンタルサーバもちろんフォントにも注意しましょう」ではなくて、ネットで注目を集める時には、こういう構造が必然的に生まれることを意識すべきだ、ということだ。

それと、もうひとつ印象に残ったことは、このサイトを立ちあげた彼は、炎上や偽装ということを軽く見ているということだ。

私にとっては、こういう形で身分を騙って政治的主張をするのはとても悪いことで、それがバレて非難されるというのは、とんでもなくマズいことだと思うが、謝罪文を読んでいると、彼は、どちらもたいしたことないと思っているような気がする

たぶん、これについては彼が正しいのだと思う。これは非常に注目を集めた話題だったが、たぶん、一週間もすれば何か話題を集めるようなニュースが起きて忘れさられてしまう。「炎上が一大事だ」という私の感覚は、コンテンツの消費がもっと遅かった昔に形成されたもので、今の状況とはミスマッチだ。

一方で、子供をダシに使うというセンスは非常に古くさいもののように感じるが、そういう古い感覚と新しい感覚が入り交じっているのが彼の才能なのだと思う。そういう才能を持つ人が政治を志すということは良いことだと思う。「良い」というのは、もちろん単純な意味ではないが、皮肉だけでもない。彼が今後も政治的活動をしていけば、おそらく2chまとめサイト向きの強烈なネタを継続的に提供できると思うからだ。

経済においてバブルを完全に無くそうとすると不況になってしまうように、軽い言説がクルクル回っていることを否定しては、政治そのものが停滞してしまうのではないだろうか。

一億人から「何でやねん!」と総ツッコミ受けるような役割を担う人、どうしても担ってしまうような人が必要で、彼のようなちょっと理解しがたい感性の人が1000人くらいいたら、そういう新しいリーダーシップの形が見えてくるような気がする

あと関係ないけど、これも自分で読みかえしてみて面白かった→「インテグラル・スピリチャリティ」書評 - アンカテ

一日一チベットリンクチベットNOW@ルンタ:中学生が「平等と民主」を求めデモ