「結果の平等」と「変化の不平等」

今日の読売新聞で、2008年の論壇を「『新自由主義』崩落の年」と総括していた。

これらの危機や問題には共通の根があることを、今や私たちは知っている。小さな政府を志向し、社会の隅々までを市場化し、すべてを個人の能力に帰していく「新自由主義」である。2008年は、リーマンショックでその根が掘り出され、ここ20〜30年ほど世界を席巻してきたこの思想が、もはや従来のような力を持ち得ないことを明確にした年だったといえる。

確かに、「新自由主義」に否定的な言説は広まっていると思うけど、「新自由主義」以前に回帰せよという主張がほとんどであるように思える。少なくとも、世界が変化していく中で、日本がどう変わるべきかを示すようなビジョンは見あたらない。

特に、価値観の多様化を前提として社会が変化していく方法としては、市場や自由競争に代わるものは無いと思う。

新自由主義」における市場化は、各自が萎縮することなくリスクを取って創意工夫を行うことを目的としているので、セーフティネットの存在をもともと前提としている。「セーフティネットをもっと整備するべきだ」という主張は、「新自由主義」と矛盾しないというより、原理的にその一部であると見るべきだ。

市場の機能を限定していくならば、別の方法で社会を変化させなければならない。そして、一つの理念に世論を集約して、トップダウンで社会を変えていくことはもうできない。

だから、筋が通っている反「新自由主義」とは、現状維持で社会を固定化していくことになると思う。

しかし、日本が現状維持を望んでも世界はどんどん変化していくので、誰かがその擦り合わせをしなくてはならない。たとえば、国際競争力の無い製造業を保護して雇用を確保するならば、海外と競争して稼げる産業から高い税金を取ることになる。そういう産業の中では、世界のペースより早く変革を継続していく必要があるだろう。

反「新自由主義」の主張は、おおむね、「俺たちは変わりたくないから、おまえたちが変化しろ」という帰結を暗黙に含んでいる。所得は平準化されるかもしれないが、社会の中の一部の層を、変化へのプレッシャー、変化のストレスから保護し、それを社会の特定の層に押しつけるということだ。

それは「結果の平等」と同時に「変化の不平等」を生むと思う。

今の40代50代が、自分たちの先輩のようにサラリーマン生活をまっとうし定年まで勤めあげようとしたら、20代30代は手本とすべきモデルを失なう。自力でものを考えてどう変化すべきか模索することを要求される20代30代は、これまでよりずっと多くなるだろう。高齢者が変化を拒むことで、若者に「変化」のストレスが押しつけられることになる。

逆に、今、社会の中心にいる人たちが率先して変化していけば、たとえ失敗しても、若者に教訓を残すことはできる。

変化する方向がAとBの二つあったとして、今Aを選んで失敗すれば、次の世代はBに集中して変化の戦略を練ることができる。今、AもBも拒否したら、次の世代はAとBの両方を検討し、場合によってはABどちらを選ぶべきかについて、より切羽つまった状況の中で議論しなくてはならない。

正規雇用についている人が変化をこばむと、非正規雇用についている人が余計変化しなくてはならない。男性が変わらなければ女性が変わることになる。地方が変わらなければ都会がより変化する。そういう相互関係は、社会のあらゆる層の中にあると思う。

私が「変化」を拒否したら、次の世代か社会の別の層が本人の分と同時に、私が本来請け負うべきだった「変化」をしょわされることになる。

日本中で、「変化」の押し付けあいが起きている。ほとんどの人が自分だけが「変化」しないですむ勝ち逃げの道を目指しているように見える。

社会が変化する時には、誰もが平等に変化すべきであり、「変化」が社会の中に散らばって、その分だけ個人の変化が少なくてすむ方法を模索すべきだ。あるいは、「変化」を負担する能力に応じて適正に分配すべきだ。私は今でも、市場をベースにした「新自由主義」がその理想に最も近い道だと思うが、当然、それには異論も多いだろう。

新自由主義」によって「変化の不平等」が拡大するという反論であれば傾聴に値すると思うが、「自分たちの言うようにしたら誰もが『変化』しなくてすみますよ」という話はインチキだと思う。

少なくとも「結果の平等」と「変化の不平等」のバランスについて、もっと意識的に考えるべきだろう。


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