訃報のマッシュアップ化と歴史の継続性

誰かエラい人が亡くなると、新聞に追悼記事が出てテレビのニュースでもワンコーナーの特集を流す。故人の業績がサラっとまとめられていて、自分史の中でのその人がクッキリ浮かびあがる。

しかし、故人をリアルタイムで経験してない若い人にとっては「誰それ?」という感じだろう。特に、第一線を退いてから時間がたっている場合は、いくらテレビや新聞で故人の偉大さを強調しても、違和感だけが残るというか、無駄な紙面、無駄な時間と感じられるのではないか。

そういうギャップは埋めようが無いと思っていたけど、

こうやって多面的に故人の業績を示すことが簡単にできる時代には、次の世代へと歴史を受け渡す感覚も違ってくるかもしれない。

全くその名を聞いたこともなかった人が、これらのページを眺めていて、どこかで何かピンと来るものがあったとしたら、すぐにWikipediaで詳しい経歴が手に入り、そのままYouTubeの動画でギャグを見ることができる。ブログで故人を愛した多くの人たちの追悼文を読むことができる。その勢いでDVDやCDを購入すれば、2〜3週間のうちにはちょっとしたマニアになれる。

もちろん、植木等さんの場合は、たとえば針切じいさんのロケン・ロールの人だよと言えば、それだけで充分にその存在感を感じることができると思うけど。

これからの訃報はこんな感じで重層的にマッシュアップされていくのだと思う。そして、それによって世代から世代へ受け渡されていくものも濃くなっていくのではないだろうか。

それは単なるデジタルな情報の集積ではなくて、たとえばこんな思い入れのこもった素敵な追悼だったりする↓。