手嶌葵の「テルーの唄」
手嶌葵が「テルーの唄」を歌う時に、そこに生起するはずだった因果を人名の形で書けば
どれも大きく重い名前である。その上、そのうち何人かはややこしい関係になっていたりする。
だから、彼女は大変な状況の中で歌っていて、普通だったら、その大変さが何らかの形で漏れ出てきてしまうはず。
しかし、そこにはただ、透明な歌声だけがある。
手嶌葵だけがそこにいる。
まぎれもなく、テルーが一人そこにいる。
これは本当に不思議で稀有なことだと思う。
彼女は過去をシャットアウトしているわけではない。過去を乗り越えようとしているわけでもない。ただ透明になり、本来の自分であろうとしているだけだ。
人類は既にたくさんのアートを産み出していて、怨念のようなその集積が、もし目に見えるものだとしたら、高層ビルのようにそびえ立っていて、今にも崩れかからんばかりに僕たちを圧迫していると思う。
目に見えないものを表現しようとするアーチストたちは、そのような圧迫が目に見える世界、過去がほとんど物理的に屹立している世界で、24時間その圧迫の中で作業せざるを得ない。手嶌葵が置かれているはずの状況は、典型ではあるが特殊なものではないだろう。どのように過去を背負い、過去に対峙し、過去を精算するか。それを抜きに表現というものはあり得ない。
ところが、それ抜きの表現があり得た。
僕は手嶌葵より、地球というこの星に感心した。
この星は面白いことを考えつくものだと思う。このややこしい時代にピッタリのアーチストであり、ピッタリのタイミングで、ピッタリの配役で彼女はデビューした。地球がこの一連の流れを手配したとしか思えない。
テルーは重い過去を背負っているが、実際には過去というものは存在せず、今そこにいるテルーだけが現実だ。テルーが本当に現実としてこの星の上に実在する時、その存在は手嶌葵の歌声のように透明になるのだろう。
手嶌葵の「テルーの唄」は、この時代に向けた地球からのメッセージだと思う。