働かなくても食っていける社会がもうすぐやってくるよ

昨日のエントリを書くために自分の過去ログを検索していて再読したが、道に落ちてる直径30cmのケーキに出くわしたアリさんモデルという表現は、実に、今、WEBで起こっていることの本質を表現していると思う。

Skypeやグーグルが何でもかんでもタダで提供するのは、第一には自分たちだけではとても食いくれないからだ。

そして、これはそんなに特殊なことでも不思議なことでもない。

本書でいわれる「リアル社会」を、私はかねがね「脳化社会」と呼んできた。ネットの社会は、私から見れば、「リアル社会」がより純化したものである。

「リアル」な社会とは、養老氏の言い方で言えば「脳化社会」、つまり、シンボルの操作で回っている世界である。だから、現代の労働は大半がシンボルの操作である。

そして、純粋なシンボルの操作であるプログラミングという作業においては、生産性の個人差が非常に大きく、今までの社会は生産性の低い方の人間に合わせてデザインされている。

だから、生産性の高い人間だけを集めて仕事をすれば、途方もない生産性で成果が生まれ、とても自分では食いきれない価値が発生するのは必然である。このことは、養老氏が「脳化社会」と言っている範囲、つまり、普通の人が「社会」とか「リアルな社会」と呼んでいる範囲では、同じように成立する。

言い方を変えれば、グーグルが創業した1998年に戻って、どこか適当な大企業をグーグルにしようとしたら、何が必要だろうか?

大半の大企業は、当時、グーグルが持っていたものを全て持っている。二人の優秀な大学院生と、パソコンを自作する為のガレージと、サーバを組み立てるためにパソコンの部品を買う費用だ。どれも、課長クラスで楽々決済できる話だ。

だから、大半の大企業から、引き算をするだけでグーグルを作ることができる。組織や指揮命令系統や報告書や無駄な会議を取り去って、優秀な技術者がセルフマネジメントできるようにすればいい。

空想的な話ではあるけど、足し算でなくて引き算であることに注意してほしい。株主である資本家は、自分の会社に何かを足す場合には、さまざまな制約を受けるし、調達する資金を追加投資しなくてはならない。でも、引き算をする時には、完全に制約なしで自由に自分の会社をいじることができる。

もし、資本家が強欲で、純粋に自分の資産を増やすことだけを求めるとしたら、引き算によって自分の会社の価値を最大化しようとするだろう。そして、大半の資本家は強欲で、純粋に自分の資産を増やすことだけを考えるので、それは実際に実現するだろう。

結果、ものすごい数の失業者と、「道に落ちてる直径30cmのケーキに出くわしたアリさん」企業がたくさん出現するだろう。

正確に言えば、アリさんはケーキに出くわしたのではなく、ケーキを作り出している。だから、アリさんがケーキのカケラを食べると、そこにもう一つのケーキが生まれる。

こういう社会において、「働く」ということは、ごく稀な人間だけが手にできる、非常に貴重な権利になるだろう。それを巡って、熾烈な争いが起こる。

しかし、「引き算」を終えて、高い生産性を手に入れ、引き算済みの競合企業と面している企業にとって、自社で働く能力が無い社員に雇用を与えること、つまり昔に戻ることは、死活問題だ。それは絶対に認められない。

だから、そこだけは譲らない。「何でもしますから、おねがいですから、それだけはご勘弁」と言うだろう。

そして、まずは直径30cmのケーキを差し出す。つまり、自分たちの高い生産性の成果を、惜しげもなく社会に還元する。だから、「アリさん」企業の生産物は、ほとんどがタダになる。電話や検索やメールやワープロがタダになっているのは、全然序の口で、もっといろいろな凄いものがタダになる。広告とかバージョンアップとか、何らかのヒモつきで後でお金を取られるようなニセモノのタダではなくて、本物のタダになる。

もちろん、食べ物やエネルギーや物流については、今のような労働が必要で、そのコストは発生する。

しかし、そのコストの中のホワイトカラーの人件費はタダになる。アリさんが、ケーキのカケラ、つまり情報システムやコラボレーションのノウハウをタダで提供するからだ。人件費がタダになると、食べ物やエネルギーや物流の値段もほとんどタダになるだろう。

たとえば、公共事業が政治的マターになるのは、それがほとんど人件費だからだ。購買されるセメントや砂利は、選挙になるとネジリハチマキで選挙事務所にかけつけたりはしない。公共事業の費用として支出されるお金は、名目はさまざまでも実態として最終的に人件費に回るから、それを削減することが難問になるのである。

ビルや橋のようないかにも「ハード」なものも、ほとんどが人件費、つまりシンボル操作の費用なのである。だから、ソフトがタダになれば、大半のものがタダになる。

タダにならない部分は、アリさん企業の法人税を財源として、失業手当として支給できるだろう。

つまり、「生活保護でかなりの贅沢をして暮らせるけど、『働く』為には、ものすごい才能と努力が必要になる社会」である。

これが本当にやってくるかどうかはわからないが、世界はこの方向に向かっている。よほど何か強力な人為的な介入をしない限り、こうなると私は思う。

そして、この社会が実現する為の最も大きな障害は、「人は報酬を労働の対価として受け取るべきである」という倫理である。「働くもの食うべからず」という倫理が最大の障害となる。

そこに固執している限り、グーグルやスカイプの中の人の生産性と、自分の生産性の格差がそのまま収入の格差になる。そこに固執する限り、ほとんどの労働者に職はなく、給料ではとても食っていけない。労働者が労働の対価として報酬を受け取ることに執着するならば、ちまたで「格差社会」として恐れられていることは現実化するだろう。

でも、グーグルやスカイプに、職でなく他のものを求めれば、彼らは何でも気前よく提供する。ケータイはもうじきタダになるし、テレビはアップルがハードこみでタダで配るだろう。もっと時代が進めば、車とかパソコンとか現金だってもらえるだろう。「アリさん」企業にとって、いかなる犠牲をはらっても彼らの仕事のやり方を守ることが経済合理性に基づいた行動であり、資本家は利潤を最大化するためにそれを要求するからだ。

だから、資本と企業がこういう方向に進もうとするのは間違いないと思う。

とは言っても、これは実際には夢物語だろう。労働者がこれを受けいれるとは思えないからだ。「人は報酬を労働の対価として受け取るべきである」という倫理は、簡単に拭い去ることはできない。仕事が無くて贅沢できる社会より、ワーキングプアだらけの格差社会を、労働者が望み、その集団的な力はとても強い。資本家や企業がそれに対抗して、上記のシナリオを実現するだけの力を持つことは難しいかもしれない。

私としては、このねじれた階級間闘争が、おかしな結果をもたらさないことを願う。働くこと以外にも、人生には重要なことや価値あることがたくさんある。働くことに執着していると、養老さんが言うところの「脳を作った世界」、つまり、「リアルな社会」の外が見えてこない。

参考: アンカテ(Uncategorizable Blog) - 金のためならなんでもやれ

(2/2 追記)

文中の「働くもの食うべからず」は「働かざるもの食うべからず」の間違いでした。詳しくはこちら