「正しさ」の連結における局所的最適化と全体的最適化とシフトチェンジ
「議論がかみあってない」と言われてしまった。確かに、「シフトチェンジのある権力論」について考えるというエントリーについて、私は「現実に即した議論をしろ」と言われているというふうに理解したので、それは完全に誤読だったと思う。
でも、私から見ると、シフトチェンジのある権力論は、純粋に理論的なことを言おうとしてその例題としてYouTubeをとりあげたつもりだったのに、理論でなくその例題の方を問題にされているように感じたので、そういう応答をしてしまったのである。
まぁ汚い現実は置いておいて、法というのは理念から実際の運用までに
自然法⇔法理学⇔実定法⇔法運用
という道筋を辿る。
私がもともと問題にしているのは、この話の「⇔」の部分の正しさは誰がどのように保証しているのか?ということ。
これをプログラミングに置き換えても良い。各々のフェーズはほぼ対応する。
開発理念⇔要件定義・設計⇔実装⇔現場運用
システム運用現場でよく起こりがちな揉め事に「この開発理念からすると、Aの仕様がBという風に動かないのはおかしい」と言い出す人がいると思う。いやそれはそうかもしれないけど、Cという場合に例外が出るし、Dの設計にも影響を与えますよね。それを勘案してEになってるんですけど・・・ということってあるでしょ?
今回も同じ。essaさんが「自然法」と言っちゃうから
・誰が演算するの?
・いつ演算するの?
・その演算は誰が担保するの?
・損害に対して補償はどうするの?
・そもそも補償するの?補償するならどうやって損害を算出してどこから出すの?
等の問題が出るのだ。
これらの問題について、私と孝好さんが議論した時に、その裁定をするのは誰なのかという話。
私はほとんど具体的な主張をしてないし、議論できるほど著作権法のことも音楽業界や映像業界のことも知らないけど、ネットと著作権を巡る議論はたくさん行なわれていて、大半が平行線になっていて決着がつかない。それは何故かと言えば、法理論的な議論を裁くメタな法理のようなものの決定版みたいなものは無いからだと思う。
それに対してessaさんは答えを返せていない。
(合意の問題には「合意できないときの想定」という答えを頂いたが、論点はそこじゃない。最大の論点は「それが自然法的に善なのか?」だ。)
そりゃそうだ。だって段階をたくさん吹っ飛ばして末端たる現場の理論と、同じく末端たる自然法
を直結させのだから、途中の設計段階や実装段階から矛盾が吹き出てしまう。
「⇔」の人がどうがんばっても遅かれ早かれ「途中の設計段階や実装段階から矛盾が吹き出る」というのは必然だと私は思う。
今の閉塞感は、政治の理念、つまり自然法には不満がないのに、現実の法運用やそこから来る社会のあり方について納得できないことが多いことから発生しているように私には見える。それについて「⇔」の人に文句を言うとそれなりにきちんとした説明が出て来る。
だけど、「⇔」を担っている人は、一般人を論破することはできても納得させることはできてない。
「⇔」に対する極度の不信から一切の「⇔」を拒否して直接行動に出るというのは、破滅的な結果をもたらす。そういう破壊的な断絶をもたらす「革命」よりは「シフトチェンジ」の方がいくらかはマシであると主張しているのであって、「自然法⇔法理学⇔実定法⇔法運用」より「シフトチェンジ」の方がいいと言っているのではない。
というか、政治哲学的に「革命」と「⇔」の間を中間地点というかマイルドな革命みたいなことを追求した人は誰かいないのかなあと思っている。
このすれ違いは、bewaadさんが私のエントリに反応して書かれた記事を見ても感じる。
私は意図的に具体的な政策論を避けているのだけど、bewaadさんはそこから無理に「官僚による行政指導」という政策論を引き出して、それを実証的に批判している。これは司法ではなくて行政の立場からのものだけど、まさに、典型的な「⇔」の人の議論だと思う。その続編からリンクされている、官僚のすごさはすり合わせ処理のすごさという話がその典型。
bewaadさんの取りあげた筋で言えば、私としては「官」よりは「行政指導」や「すり合わせ」を受けいれる「民」の方のエートスを問題にしているのだけど、その問題も「すり合わせ」=「⇔」というポイントに帰着する。
つまり、法律は自然法から「⇔」によって段階的に法運用が導出され、社会は「⇔」によって段階的に組織や人が密接に連結している。
「⇔」の人たちはそれぞれの立場で局所的に最適な努力をしているからそれで我慢せい、という話だと思う。
たぶんグーグルの世界政府は、局所的に最適化されている「⇔」を全体的に最適化するという話だ。
「局所的に最適な努力をしているからそれで我慢せい」と言っていた人たちは、グーグルから「全体的に最適化するからこれで我慢せい」と言われた時に、反論することができないのではないか。
だから、私はむしろ意図的に「段階をたくさん吹っ飛ばして末端たる現場の理論と、同じく末端たる自然法を直結させて、途中の設計段階や実装段階の矛盾を吹き出させ」ようとしているのだ。どちらかと言えばYouTube論は通過点であって、サイレントテロのようなものを、言説化、可視化したいというのが、もともとの狙いである。
孝好さんの比喩を見て感じたことだけど、アジャイル開発もテストやコード書きという末端とユーザニーズというもうひとつの末端を「段階をたくさん吹っ飛ばして」直結させて、本当に重要なプロセスを浮上させるという点で似ている所があるかもしれない。
つまり、YouTubeを部分的に正当化する理論と、グーグルによる世界政府を拒否する理論と、サイレントテロを可視化する理論は本質的には同じもので、「⇔」の連結による連続性のどこかに風穴を開けるものだ。あるいは「⇔」を支配することが権力であるということを可視化するものだ。
「シフトチェンジ」や「小泉さんのessa流解釈」だけが解ではなくて、他にももっと良い解があると思うけど、そういう理論が無ければ、YouTubeは単なる泥棒で我々はいつかグーグルの支配を受け入れサイレントテロは深刻化することになると私は思う。